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毀れゆくものの形

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   第 四 章

 空気中に、油の粒子が隙間なく漂っていた。眩く照りつける太陽がそんな妄想をもたらす時刻だった。鶉町は山間にあるせいで、夏のうちの何日かが北国とは思えぬほど暑くなる。寂れかけた炭鉱町から離れられないでいる煤けた顔の人々は、まるでその時刻に詰め込まれた鰯の死骸のように、ぎらぎらした暑さにうだっていた。
 蝋涙のように熱を帯びて滴る火が陽炎をつくりだし、その頼りなげな影が人の輪郭をとり始めていた。ふらふらと宙をさまようような足どりで、一人の老人がこの町に現われた。
 道端で擦れ違う人が何処からともなく伝わる冷気を感じて目をやると、老人の眸に陰鬱な翳りが宿っているのを見て、思わず足を止めた。人々は老人の後ろ姿を振り返りながら、その痩躯から漂う気配に、夏の夜に忽然と訪れる幽霊を連想した。身慄いする頃には、老人の姿は再び光と光の織りなす蜃気楼の(あわい) に閉ざされていた。

 有木老人が垢じみた遍路姿に頭陀袋一つで矢継医院を訪れてから、一週間程の日が過ぎた。老人はしみの浮いた日灼け顔をし、異様な臭いを発散させていたが、身を清め、新しい衣服に着替え、胡麻塩の蓬髪を撫でつけると、いかにも学者然とした、人品の浅ましからぬ印象を人に与えた。院長の賓客として迎え入れられた老人は二階の特別室を居室に提供され、日中のほとんどをそこで過ごし、そこから出ることはなかった。けれども、夜になると忍ぶように診察室の隣の研究室に赴き、遅くまで院長と何ごとかを語らっていたのである。
 その日の午後、早彦は、病院の裏口に面した道を通りかかると、片足を引き摺った犬が後足を(ねぶ) るようにして丸くなり、塀の傍に蹲っているのを見かけた。その犬は目やにを溜め、だらしなく耳の折れた、みるからに哀れで汚い老犬だった。老犬はブロック塀に背をもたせかけ、暖かな日溜りの中で日光浴を楽しんでいる風情だった。早彦は陽に当たりながら目を細めている老犬をしばらく眺めていたが、何を思ったか、足下の砂利を一掴みすると、礫を痩せた犬めがけて次々と放り始めた。居眠りを妨げられた老犬は赤く充血した目を瞠き、力のない弱々しい唸り声を洩らした。その声が甲高い吠え声になるのにさほどの時間は要さなかった。
 犬の鳴き声を聞き咎め、数人の患者が二階の窓から身を乗り出していた。病人たちは非難のこもった目つきで早彦を睨んだ。けれども、早彦は臆する素振りも見せず、悲鳴をあげる老犬めがけて小石を放り続けた。たまりかねた患者の一人が、「可哀相に、そんな悪さ」と叫んだとき、早彦は挑戦するように二階を振り仰いだ。だが、早彦が目にしたのは、叱声を浴びせた入院患者ではなく、彼らと隔離された特別室で佇んでいる有木老人の、窓越しに見える微笑だった。老人は吸い込まれてしまいそうな柔和な目をゆるませ、まるで子供のあどけない悪戯を楽しんででもいるかに見えた。早彦は目を逸らすと、掌に握りしめていた最後の石を、思いきり犬の胴体に叩きつけた。病んだ犬は呻くような鈍い音を発した後、尻尾を垂れ、まろぶように逃げ出していった。

 その夜、鶉町に地震があった。棚から物が落ちるということもなかったのが、地盤が安定していて原子力発電所建設の候補地にも上ったほどの鶉町にしてみれば、たしかに異変といえた。町の中には、その時、山鳴りのようなものを聞いたという者も現われた。二階の勉強部屋にいた早彦は、地震の直後、窓の向こうに見える山並の際が縁取りされたように薄く光っているのに気づいた。夜空と接した稜線に仄かな赤い光が走り、山頂近くでその色が強まり、山容が何本もの鬼の角のようにくっきり浮かんで見えた。
 何度かの余震も過ぎ去り、早彦は寝床に就いていたが、赤い光の中に聳える山々の暗い姿が妙に心に残り、なかなか寝つくことができなかった。そのうち、昼間見た有木老人の穏やかな微笑が目に浮かんできた。そういえば、あの表情は、この間の冬、火傷で死んだ人のものに似ている、何げなくそう思った。そう思ってから、早彦は慄然とした。息苦しさを覚え身を起こすと寝台を離れ、月光の青白く洩れ入る窓辺に寄って、暗闇の涼しげな空気を吸い込んだ。つまり、有木老人の微笑は死者の嗤いだった。
 早彦は階下の一部屋から明かりが洩れているのに気づいた。その部屋は矢継院長の研究用の部屋だった。父親は自分以外の者が入室することを固く禁じていた。けれども、近頃は有木老人がそこを訪れているのを知っていたので、この夜中にと思いながらも、早彦は強い好奇心が募ってくるのを抑えきれなかった。
 病院のぐるりには一メートル半ほどの高さのブロック塀が建物に接して廻らされていた。早彦は物干しからロープを外すと机の脚に括りつけ、その端を窓から下へ垂らした。ロープを伝って塀の上に降りると、モルタル塗りの壁で体を支えながら明かりの洩れる研究室の窓に近寄っていった。カーテンが明り採りの小窓にもかかっていたが、金具と金具の間にできた布地のたるみから部屋の中を覗くことができた。
 研究室の壁にはいくつもの棚が並び、そのどれもが書類や標本で埋められていた。窓の近くに黒光りした大きな机があり、その前に坐っている父親のがっしりとした背が見えた。最近まで応接室にあった簡易ソファとテーブルが運び込まれていて、テーブルに置かれた滑石製の灰皿で烟草が燻っていた。早彦の覗いている小窓が開けられているのは、充満する烟を抜くためなのだろう。
 有木老人は入口のそばのソファには腰掛けずに、壁際を往ったり来たりしながら書類や標本に目を通していた。矢継院長は一枚のレントゲンフィルムを手にすると、押し殺すような声で喋り始めた。
 
「ここを見て下さい。そうです、この微妙な突起が側頭部に大きな影響を与えている。そして、私が運び出したサンプルに共通してみられるのが、このラムダ状縫合における突起なのです」
 院長は変色したフィルムを手許のスクリーンに透かしながら、太い指でその部分を示した。有木老人は標本棚から頭蓋骨を一つ取り上げ、皺だらけの手でその後頭部を擦った。院長が人差指で示したのは、白く浮かび上がった頭部側面写真の、頭頂骨と後頭骨の繋ぎ目の部分だった。それは、ぼんのくぼを頭頂へと辿っていくと途中にある箇所で、早彦の目にも白い光を透かした突起が褐色の地から際立って見えた。老人は手にしている頭蓋骨の拇指大の尖った部分を痩せた指でなぞった。
 院長は背凭れのついた廻転椅子をめぐらしながら太縁の眼鏡を外し、セルロイドの蔓をハンカチで丁寧に拭った。
「ははあ、やはりお分かりですか。――もっとも、それほど大きな角が生えたものは他にありませんからね」
 低い声音の底に、上ずる声を押えようとする無理が潜んでいた。そのため、院長の喉から数回、引き攣るような咳が洩れた。
「これか……」
 有木老人がひっそり呟いた。それから、何ごとかを案ずるような遠い目つきをして、掌の上の頭蓋骨を見つめた。

 昭和十二年、北海道帝国大学に医学部第五外科が新設されると同時に、有木博士はその主任教授に任官された。博士はその二年前に「情動の外科学的考察」という論文を発表していたが、第五外科の新設と博士の登用の蔭にはこの論文と関連した帝国陸軍の強力な後押しがあったといわれる。
 当時、欧米の心理学会や精神分析学会では人間の情動や性行動についての研究が盛んに行われていたが、とりわけ、情動の起源が脳にあるのか、それとも身体の末梢部分にあるのかという研究が注目を集めていたのだった。有木論文は「情動の発生は海馬体に起因する」という大胆な仮説を提唱するもので、それは性行動を重視するフロイト学派の精神分析学を、解剖学的に、あるいは脳神経学的に裏付けようとする試みだった。
 情動とは「急激に生起し、短時間で終わる、比較的強力な感情」と定義され、主観的な内的体験であり、行動的・運動的反応として表出され、同時に内分泌腺や内臓反応の変化を含んだ生理的活動を伴うと説明される。
 さて、大脳のうちで系統発生的に古い部分を大脳辺縁系と称するが、その中でも皮質部分は古皮質・原皮質・中間皮質・傍辺縁構造に区別され、有木博士のいう海馬体とはそのうちの原皮質に相当するもので、これはさらに海馬・歯状回・海馬支脚という部分から成り立っている。
 有木論文の発表された二年後の一九三七年、海外でも、J・W・パペッツという研究者が情動の経路について言及している。有木論文とほぼ同じ主旨で、「情動は海馬体で形成され、脳弓をへて乳頭体へ伝えられ、そこから傍辺縁構造にある視床前核、さらに中間皮質の帯状回に達する。帯状回は情動経験の受容領域である」というものであった。
 これらの仮説は、それまで嗅脳と呼ばれ、嗅覚だけに関与すると看做されていた大脳辺縁系をクローズアップするとともに、その後の研究が進むにつれて、摂食行動・性行動などの本能的行動にも関与していることを明らかにしていった。
 有木博士は自らの仮説を実証するため、脳外科学を専門に研究する機関の必要を唱え、文部当局に上奏した。これに関心を示したのは帝国陸軍上層部だった。陸軍の秘密部会は「性格改造の外科的研究」を特務とすることを条件に第五外科の設置を約束した。博士にとって有難かったのは、研究に必要な実験材料を潤沢に提供しようという内密の申し出だった。いうまでもなく、海馬体の研究に欠かすことのできない生きた脳が手に入ることになったのである。
 ロボトミー、つまり前頭葉白質切截手術によって前頭前野と間脳との線維連絡を切断し、妄想型の分裂病や強迫神経症・退行期鬱病を治療したという報告は一九三六年に提出されているが、このような内外の学問的進歩を目の当たりにして、軍部の急進的な高級将校が人間行動の枢要な因子である情動や本能を外科的にコントロールできうるということに目を向けたとしても、異常だとばかりは言い切れない。日本は八紘一宇の大理想の下に着々と挙国一致の体制を固めていたのだった。
 けれども、当時の脳外科学の技術水準は決して高いものではなかった。脳損傷などの場合、患部を発見するという段階でさえ、一度開孔してみなければならないという状態だった。脳というのがどれほど微妙で不安定な組織であるかを示す例にコントルクーという現象がある。脳は頭蓋骨内で脳脊髄液に浸され浮游した状態になっているが、頭脳が破壊されたり孔が開いたりするの別にして、ある衝撃で閉鎖性頭部外傷を受けた場合、損傷を受けるのは直接に打撲を蒙ったところではなく、反対側の、頭蓋骨と激突した部分である。この現象をコントルクーというのだが、頭蓋骨の中で、水に漂う豆腐のように、脳はいかにも弱々しげに存在している。この繊細な組織に対して、損傷部位の決定すら剖検に頼らざるをえないという程度の技術で頭部手術がなされていたのだから、いかに危険を伴うものであったかは窺い知れよう。
(部位決定の技術については、戦後になって、頭蓋骨に孔を開け脳室に空気を注入したり腰椎から空気を注入する気体脳室写や、頚動脈や椎骨動脈から造影剤を注入する脳動脈写などの脳室撮影の方法が開発されたが、依然として脳に与える危険性が大きいため、後年、脳スキャン・脳シンチグラフィー、さらにCTスキャン――コンピューター断層撮影法――へと改良されたのは周知のことである)
 一九三七年、H・クリューバーとP・C・ビューシーによって、海馬と中間皮質の海馬傍回、扁桃核と呼ばれる古皮質梨状葉の皮質下核などを含む側頭葉の両側性切除手術の報告がなされたが、その結果、性行動の温和化や食物嗜好の変化がもたらされることが明らかにされた。有木教授は、大脳辺縁系が人格に及ぼす影響の甚大なることにいっそう自信を深め、多くの実験を繰り返した。

 矢継院長の肥った顔が綻んだように見えた。
「先生は、亡霊に逐われているのですか」
 言葉のうちに、揶揄するような響きが篭っていた。この十年余、たしかに、有木老人は何かに逐われるような旅を続けていた。だが、それは、なすべきことを失ったからだ――わしは老いぼれたのだ、老人はそう思った。
「研究は、まだ完成していない」
 深夜の研究室に、厳しく断言する声が響いた。その一言でうちのめされた老人は、骸骨のような痩躯を惨めにふるわせ、悲痛ともいえる吐息を洩らした。わしはただの老いぼれだ、老人は再びそう思った。それから院長の鋭い視線を躱すように一息つき、寂しげに笑った。
 院長は姿勢を正すと、蹲るようにソファに埋もれている老人に向かって言い募った。
「人体実験が続けられたからこそ、脳外科学の進歩があったはずだと思うのです。我々は科学を信奉するものです。科学の歴史からみれば、感傷的に過ぎるのは個人主義の弊というものでしょう。科学を個人に還元してはならない。しかし、だからといって、国家目的とか人類などという抽象性に結びつけようというわけではありません。そんなことは科学の過渡的な傍証にすぎないのです。科学はただ事実であり、人間が唯一事実に関与できるのが科学だというわけです。だから、戦争も虐待行為も、すべて国家という抽象性がその責めを負えばいい。ははは、それでも国家はその抽象性を剥ぎ取られたことなどなかったのでしたね。……先生は厖大なサンプルを目の前にして手を拱いておれなかった。つまり、事実の歴史の中にいる一科学者であったにすぎない」
 虚ろに澱んだ老人特有の眼窩の奥で憎しみの罩められた光が閃いたように見えたが、すぐに深い悲哀の色調に遮られた。それから重く閉ざされた口を開き、有木老人は一言一言区切るように呟いた。
「このわしを焚きつけるのは、これで何度目だろう。……君は特別だ。わしは今でもそう思っている。……君はたしかに科学者というものの非情さと冷酷さとを備えている。君にとっては、いかなる手段や方法も、もちろんそのことに付随する道義的な責任や人としての悲しさも問題にはならぬのかもしれない。……今にして思えば、大脳辺縁系の研究に没頭していた頃のわしにしても、君に劣らず、そのような科学の狂信家だったのだろう。だからこそ、あの戦争の中で学問にだけ邁進できたに違いないのだ。……国家の厚遇は、まさに千載一遇だったわけだ。わしにとっては、国体の運命も、人々の生き死にも、何ら関心を払う必要のないものだった。わしは学問の自己増殖のうちに身をおいていたのだ。大学の研究室で、何ものからも無関係に、ただ研究さえ続けられればよかった。……」
 北海道帝国大学医学部第五外科の主任教授だった老人は、そこで言葉を跡切り、遠い過去を振り返るように宙を睨み、それから深い物想いに突き落とされた。
 有木教授の門下生だった矢継青年は、応召の日まで教授の忠実な助手を務めていた。その青年医師も、十数年の歳月を経て、今や肥満した躯を持て余し気味の中年の姿に変貌していた。矢継院長は太った指を胸元で組みながら、押し黙った老人を唆すように口を開いた。
「戦後になっても、先生は大学の厚い壁に守られていた。あれほどの厖大な生体実験を手がけたにもかかわらず、戦犯に問われることもなかった。あらゆる実験が中断されたのは当然としても、私が復員してまもなく研究室を訪れたときには、その痕跡も窺われなかった。……けれども、先生は雌伏でもするように、山積みされた書物の間で息を潜めておられた。そして、それは暗い顔で書類を睨んでおられた。実験科学者であるべきはずの先生は、書物と資料の山に埋もれていた」

 たしかに、有木教授は戦犯に問われることを警戒していた。それは、戦時中に執刀した被術者の大半を外国人が占めていたためでもあった。幸い、第五外科のスタッフは少数精鋭を旨として構成されていたので、実験の内容が外部に洩れることはなかった。
 だが、サンプルとして残された被験者の頭蓋骨の処理には神経をつかわなければならなかった。敗戦の様相が色濃くなり始めた頃から、有木老人は地下の霊安室を閉鎖し、そこに標本を運び込ませると、数人の関係者だけを率いて、その乾燥した頭蓋骨を粉々になるまで鉄槌で叩き割った。そして夜中になると叩き割った骨の粉を運び出し、あちこちの川や海岸で廃棄したのだった。脳のサンプルは細かく裁断した後、実験用の動物の屍体や内臓にとり混ぜて出入りの業者に下げ渡し、胴体の方は、もともと極秘のうちに搬入されていたので、実験終了後、再び隠密裡に送り返されていたため問題はなかった。
 こうして戦争終結までに、有木教授は人体実験の物質的形跡を隠蔽し、戦後しばらくの間、実験結果を抽象的な資料に書き換える作業に没頭した。矢継青年が研究室に戻ってきたのはその頃だった。
 ところで、教授はその資料分析の過程で、海馬体仮説に不完全な部分があることを発見していた。それは、海馬体と視床下部を別々に切除したとき、被験者の術後反応が異なってくるという点だった。情動の原因の全てが海馬体にあるとする教授の仮説からは考えられないことである。有木教授は、あと数回の実験が必要だろうと考えていた。しかし、自ら墓穴を掘るような真似は避けねばならないとも思った。つまり、実験科学者としての燃え盛る情熱に堪えねばならなかったのだ。
 たしかに矢継院長の言うように、有木教授は研究室に逼塞し、陰々滅々としているように見えはしたが、その裡にあるものは悔悟の気持とは別のものだった。
「わしはただ、国家の厚遇の得られぬに至って、人体実験は放棄しなければならないと思い定めただけだ」
 老人は言葉を続けた。
「わしは、わしのなしたことに何の責任も感じてはいなかった。それは、君の言うように、国家が抽象的で科学が事実であるということとも違う。――わしは忘却という方法を選んだにすぎない」
 ……思想的な責任、政治的な責任、戦争の責任、国家に追従した責任、あるいは積極的に命に従った責任、殺人の道徳的および倫理的責任、存在することの責任、そのようなものが、ただの砂粒にすぎない人間にとっていったい何だというのだろう。少なくとも、それは社会的に糾弾される性質のものではない。もしそんなことを認めてしまえば、それこそ責任という妄想を自ら軛にするような愚かな社会性というものに違いない。それはまったく個人的なことで、泡沫のような人間の、そのたった一個の薄膜の内部で、責任というものが肥大したり(すぼま) ったりすればいいだけの話だ。しかし、それでさえ、時代において何事かをなしたという傲岸な妄想なのではないか。――老人はそう考えていた。
 ……戦争行為という特殊な時代の中ですら、わしらは何事もなさなかった。なしうるはずがないというのが、ただ一つの事実なのだろう。責任を問う者、責任を覚える者は、ひとしなみに不遜なる妄想を介在させているにすぎない。そこには、嫌悪すべき自己肯定の危げな綱渡りがあるばかりだ。責任は個人の内奥に還元されるという上品な論議にしても、それこそ妄想過剰なので、世界とか人類を永遠の対象にして無理やりそれを個人に結びつけるという、猥雑で、ひねこびた、粗末な精神の生み出す襤褸のようにしかみえない。このような思いを、近代的自我の蒙昧な闇に囚われているというのだろうか。そのように批判する人は、たしかにその批判をそれなりの知識として整合化し、そうすることによって己れの闇に自己を築き上げ、ついには類などという概念操作で救われるのかもしれない。しかし、それがどうしたというのだろう。世界は個と無縁なのだ。またそれゆえに、鉱物の裡に無限に広がる暗黒宇宙というイメージはいっそう魅力的に違いない。だが、かといって、それとて何ものでもない。……わしらは累積する忘却を通して、目前にあるものを(つま) み上げることのほか何もできない。そのような形でしか、あらゆる現実を、あらゆる空想を、あらゆる行為を生きていけないのかもしれない。責任などというのは、つまるところ、忘却できるか否かということの紐帯にすぎないわけだ。忘却することで、わしらは別のものにわしらをならしめて、とにもかくにも生き続けさせる。記憶というものが累積される死であるなら、それは忘却の一つの形態であり、忘却は生と死とを超越的に押し包む全体性ということにもなるのだろうか。――老人の考えは詭弁じみていたが、韜晦とも異なっていた。
「わしは人体実験という事実を忘却するという方法で解決しようとした。わしは大脳辺縁系の研究を一切放棄するつもりでいた。しかし、実験の不完全さがわしに復讐したのだろう。わしは、忘却すべき累積する死そのものによって激しく身を焦がされていたのだ」
 老人は訥々と述べながら、灰皿で喫われずに形をとどめている長細い烟草の灰を静かに摘み、その残骸の姿を壊滅させた。そして、灰にまみれた指先を拭おうともせずに新たな一本を取り出し、あえかな火を点して吸い込むと、あまりに濃い、蒸れた色の烟を吐き出した。
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