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毀れゆくものの形

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   第 六 章

 明かりが消され、研究室のドアが施錠されるあえかな金属音が沈静(しじま) の中を伝わるのを聞いて、黒猫のように小窓に身を寄せていた小さな影が振り返った。月明とてない真夜中だったが、いつのまにか夜空には満天の星が粉のように(ちりば) められ、死者達の最期の吐息のような妖しの光を洩らしていた。
 早彦は足裏全体をブロック塀に密着させて、そろりそろりと移動していた。二階の病室から、ときおり、胸の病を連想させる咳や、手酷い悪夢にでも(うな) されているのか、苦しげな呻き声がこぼれ落ちた。早彦は自分の部屋の窓から頼りなげに垂れ下がっているロープまで辿りつくと、獣のような素早さでそれを伝った。
 早彦はまたも寝つかれなかった。彼は二重の秘密を抱いたことになる。悪魔じみた二人の実験科学者の隠匿された会話、そして人の知りうべくもない深夜にその会話を窺っていたという秘密――。この秘密は、世界中の誰もが知るはずのない、ただ深更の重く澱んだ時の記憶だけが留めおく性質のものだった。けれども、時が無限でありうるとすれば、いとも簡単に放擲されるほどの些細な記憶にすぎないのかもしれない。
 まどろもうと努める早彦の頭の中に、どういうわけか、陽光がくすんだ黄金色になって差し込んでいる中学の理科教室が浮かんだ。

 ――夏休みに入る少しばかり前の放課後、掃除当番の点検を命じられて、早彦は一人で理科教室に居残っていた。
 夕方の教室は森閑としていた。実験用の広い机の上は整頓され、暗緑色の黒板もすっかり拭われ、化学記号が乱雑に書き散らされていた痕跡すら留めていない。教室の奥には続き部屋のようになっている薬品室があった。その引き戸には立入厳禁の木札がぶら下がり、いつも鍵がかかっていて、生徒は入室を許されていなかった。けれども、その日、早彦は教師から託されていた鍵束を手にしていた。誰もいないことも手伝って、早彦は一本の鍵を選び出すと、そっと鍵穴に差し込んでみた。
 引き戸を開けて中に入ると、ガラス製や金属製の実験器材が無造作に小部屋のあちこちに置かれていた。壁一面の棚には、変色したり、文字のインクが滲んだラベルの貼られた色とりどりの薬品瓶が分類され、所狭しと並べられていた。窓は直射日光を遮る厚手の黒いカーテンで閉ざされ、そのため、理科教室の方から洩れ入る幾ばくかの光が差し込むだけで、部屋の中は薄暗かった。
 早彦は薬品室の片隅に、そこだけ頑丈に木の枠で固定された、二重になったガラスケースがあるのに気づいた。内側のやや平べったいケースの底にはびっしりと砂が敷かれ、その真中に、半ば砂に埋もれた一箇の瓶があった。早彦は外側のケースの扉から開けようと、廻らされた鎖を結び留めている錠に合う鍵を捜してみたが、鍵束の中に該当する鍵はみつからなかった。あきらめて二重になったガラス越しに覗くと、透明な瓶に貼られたラベルの上半分が砂から顔を出しており、そこにニトログリセリンと書かれているのが読み取れた。早彦は、透き通った液体の姿をしたその薬品が危険なものであることを知っていたので、人けのない、校舎の外れにある理科教室の、それも脆いガラスのケースにそれが保管されているという事実に不思議な感動を覚えた。
 早彦は長いことその前に佇み、幾重にも張り廻らされたガラスの中の液体に見とれていた。あるいは、ガラスを破る瀬戸際の、その危険な雰囲気に酔いしれていたのかもしれない。

 目を開けると、カーテンの隙間から窺われる外の空気がうっすら白み始めているような気がした。どこに焦点を結ぶでもなく、寝たままの姿勢でぼんやりしていると、天井の木目や細かい疵、しみ、空中に漂う埃の微粒子、網膜を流れる血液が、それぞれ触れ合ったり離れたり入り組んだりしながら不規則な模様を作りだしていた。それらが瞠かれた眸を通り、脳髄に達し、思念の中で明瞭なイメージを喚起するのに、それほどの時間は要さなかった。
 妖しげな星の光、二人の医者の歪んだ顔、頭蓋骨に肉付けされる乾いた皮膚、二つに裂かれた胎児たちの海、大脳の手術風景、戦場での殺戮の様子、粉々になった骨片、臓物に紛れ込んだ脳味噌、風のように全世界の空気を充たす死の微粒子、一筋に繋がる血脈の予感……、いくら目をつぶっても、混乱したイメージの切れ端が走馬燈のように鮮やかに駈け廻っていた。
 早彦は眠ろうと努めた。しかし、眠りは容易に訪れようとはしなかった。腋の下から零れる汗がその苛立ちを深めもした。早彦はやむなく、肉体と魂の分離の術を試みることに思いを決めた。

 離魂術は、早彦がただひとりで考え出したものだ。以前、気持が昂揚して眠られぬときに、少なくとも躯だけは(やす) ませねばならないと思い、そのおり偶然に編み出したのである。それには、まず、眠ろうとという意識を捨て去ることが肝要だった。ただ、その分だけ躯の方に眠りを強制する必要があった。早彦は、寝返りをうつなどの姿勢の変化を禁止した。そのため、つねに仰向けになって両脚をやや開き加減にし、胸や臍の上で軽く指を組み合わせる。そして瞑目するわけだが、このとき、なるべく外界との接触を断たないように、耳障りにならぬ程度の物音が必要だった。もっともこれは、馴れるにしたがって絶対に必要というわけではなくなるが、早彦は最初のうち、目覚し時計や腕時計の歯車の音に神経を集中させた。つまり、眠りに入らぬよう、意識が覚醒している状態をつねに確認しなければならないのである。
 その次に、瞑目したまま、さまざまの思念を映像化した。これには静止物、つまり山や谷、森、海や川の遠景などを切り取るといった方法もあるが、これらは思考の流動によって細部へ向かうため、かえって繁雑になるので、早彦はもっぱら人の顔や顔の一部分、とりわけ目や唇や鼻の形などの動的な対象の要素部分、いわば形態の特質性といったものの方を好んだ。形態の変化がなおのこと意識を集中させやすく、飽きもこないからだろうか。このような断片が暗い翳りの中で光を帯びたり、より濃厚な隈取りをつくって、写真のように鮮明に浮かんでは消えした。早彦が近頃とみに選ぶ画像は、顔見知りの数人の少女の唇や脛、雑誌のグラビアなどで見た年上の女の乳房や尻、そして想像上の、薄いピンク色の肉襞の中心に目のさめるような真紅の部分をもつ女陰などであったが、性的な、あるいは卑近な対象からの連想の方が比較的画像は安定するようだった。画像がある程度安定し、さらに別のものに転換していくときには、未知の女の顔や実際には見たこともない肉体の部分が次々に現われ、明確な輪郭を伴って固定されるのだが、この段階になると、いわゆる半覚半睡の状態に到達しているといえた。
 ここまでくると、自ら躯を動かすことは不可能となり、その替わり外の物音を起きているときと同じに聞くことができ、そのように注意を外に向けても目覚めることなどない。こうなると、意識はそれ自体肉体を持っているかのように面白いほど自由に動き回れた。例えば、夢の捏造などということも可能だった。
 早彦の場合、こうした技法は、夢を構成し、操作し、演出し、自らを登場させるために大いに利用された。そしてその夢の内容は、未知の領域、禁忌の分野、つまり欲望の実験劇ともいうべきものだった。それゆえ、日常の機微や感情の繊細な起伏など冗長にしか感じられず、肉体の具現、欲望の具現を直接主題にした粗野で生々しいドラマが創り出された。町を闊歩する女を片端からひん剥いて犯したり、策略の限りを尽くして意のままに従わせたり、往来の人々の首を刎ねたり、生きたまま解体したり、油を浴びせて火焙りにしたり、汚穢にまみれていたいけな少女たちを強姦したり、鋭利な刃物で死体の肉を削いで人肉の刺身を啖ったり、空高く飛翔して抱えている嬰児を放り投げ、その柔らかな肉塊が四散し、地上で泥のように潰れるさまを嗤ったり、その姿勢で都市の雑沓に糞尿の雨を降らしたり、強力な毒物を撒き散らし地球上のあらゆる生物を死滅させたり、巨大なブルドーザーを駆使して人々を蹂躪し全ての陸地を腐肉の海と化させたり……、とにかく、考えつくかぎりの涜神と暴虐が可能だった。これはまさしく、夢を己れの麾下に置く、妄想の王の完全勝利であり、大いなる帝王学とでもいうべきものに違いない。
 この夢見の方法がそもそも離魂術であると思い至ったのは、ある夢の中で、自分の肉体から脱け出ることが果たして可能だろうかと考えたことが契機になっていた。
 そのとき、早彦は、自分の思念、あるいは意識の姿がどのようなものであるのかを、その所在によって確かめようとしていた。早彦は意識をさまざまに移動させて、いま、躯のどの部分にあるのかを掴もうとした。それは、あたかもガラスの人体という容れ物の中をさまようごときものだった。人体という殻に意識をぶつけることによって意識の形態を探ろうとしたのだ。早彦は肉体の中を駈け廻り、いつのまにか堪えようのない息苦しさを感じていた。その苦しさは、どこをどうさまよっても、必ず撥ね返るしかない絶対の壁が存在するということに起因していたようだ。夢の捏造を経験していた早彦にとって、そのことは許し難いものだった。
 だが、早彦はとうとう出口を見出したのである。そのときには意識の形態という問題は忘れ去られ、早彦の頭の中にはただ肉体から脱け出すということのほか何もなかった。その場所は臍だった。ほんの小さな孔であった。早彦は、意識が霧状とも粘稠性の液体ともつかない細い糸になって、その孔から体外へ流れ出ているのに気づいた。いつのまにか、意識は空中に滞り、その位置から自分の寝姿を見ることができた。早彦はここで初めて、魂は肉体を離れることができると実感した。そして、夢見の方法が魂と肉体とを分かつ方法であることを知ったのだった。
 その感覚は現実のものとは異なって、まるで夢の続きのようだった。そのうちに、捉えどころのない自分がいつしか部屋の壁をいくつか通り抜けていた。闇の中をふらふら舞っているだけのようにも感じたが、どこかに一直線に突き進んでいるようにも感じられ、自分が何ものかであるという意識が稀薄になっていくように思われた。――早彦の眼差しの彼方に、予備燈のつくる薄ぼんやりした光の暈が現われ始めた。そのかすかな光の溜りの中に、俯せになって白い尻を宙に突き出した女と、それを後ろから両手で抱えている男の姿が、一つの影になって浮かび上がっていた。光と影の境にぬめりを帯びた肉体の丸みがあるのを見て、二人とも裸なのが分かった。早彦は襖を突き抜け、性行為に耽っている男女の上にとどまっていた。しかし、二人の男女のいずれも、中空に滞っているものの存在には気づかなかった。そのとき、彼らを見下ろしている早彦の意識に、二人の心の中の呟きが一瞬にして伝わってきた。
(この女、声も出さない……。あの男のことが忘れられないとでもいうつもりか。あの死んでしまった男を。――ふん。あのとき、たしかに薬物を用いはしたが、ああまで見せつける必要などないはずだ。まして、あの男は殺人鬼じゃないか。――この女、躯の中はこんなにひくついているくせに、この十年、いったい何を怺えているのだ。おまえはおれの所有物にすぎない。おまえは生涯、おれのものしか受け容れられないのだ。――それにしても、ただ一度のあの男のものがそんなに逞しかったのか……。おまえの汚れた場所をこうして清めてやる。どうだ、これでも声をあげないつもりか……。くそっ。能面のような顔をして……。くそっ。おまえなぞ、とうにまともな人間じゃないんだ。おまえは鬼の子を生んだのだからな……)
(……怨んでいるわ、憎んでいるわ、蔑んでいるのよ。それが分かるかしら。いくら激しく突き立てたって、ああ……、悦ぶものですか。――騙したうえに媚薬まで呑ませて……、あの独房に押し込め……、あなたは酷い人よ……、忘れないわ……。でも、あの男は違った……。乱暴だったけれど、優しかったわ……。そして囁いたのよ、おれの(たね) を孕むのだ、と。――よくも、私のあさましい姿を父にまで見せたわね。格子窓からあなたたちが始終覗いていたことは知っていたのよ……。あなたも父も獣以下よ、人間なんかであってたまるものですか。――私は許さない、絶対に許せない。あなたはあの男の子供を手に入れるためだけに、強引に私を妻にしたけれども、私はあなたの妻になってこうして復讐してやるのだわ……。あの男との狂気のようなセックスを、もっと想い起こしなさい。嫉妬の炎をいっそう燃え立たせるがいいわ。――さあ、もっともっと突き立てなさい。ああ……。歯を喰いしばって、そう、こうやって、私は堪えぬいてみせるわ……)
 憎悪に充ちた激越な二人の言葉が、あくまでも静謐さを装っている夜の真実の姿なのだろうか。それとも、それは、空中にとどまっている早彦の妄想がもたらした言葉だったのだろうか。彼らの言葉の意味が捉えきれぬとでもいうように、早彦の(かたまり) は収縮を始め、早彦自身は熱を帯びているように感じていた。何かの気配を察したのか、それとも生理的な臨界点に達しているのか、憔悴し脂ぎった男の顔が天井に向けられた。予備燈に照らし出されたその顔が、早彦には父親の矢継院長のもののように思われた。けれども、それを確かめる暇もなく、早彦は自分の部屋に戻っていた。
 ――異変はその直後に起きた。それは、生まれてからかつて味わったことのないほどの極端な不安の感覚だった。目にしているものは、横たわった自分の躯の他には、見馴れた机であり本棚であり寝台であり、何の変哲もない自分の部屋の内部だった。しかし、得体の知れない不安が、変調をきたした危機意識とともに一挙に昂進したのである。まるで、感覚が丸裸にされ、通常感ずることのできない世界の異様な動きが、棘のように意識を貫き、過敏になった意識が悲鳴をあげているような気がした。あらゆるものから無防備になっている早彦は、このような事態に遭遇して、再び元の肉体に、眼下のガラス細工のような躯に戻れるのだろうかと怯えた。その思いは、恐怖と名づけるべき性質のものだった。同時に、浮游している自分の周囲に、目で見ることのできぬ、強烈な、あまりに異常な危険が到来しようとしていることを察知していた。――永久に魂と肉体を分かつものの勢力が、無限の彼方から襲いかかってくる。そう考えたとき、早彦は、目覚めなければとんでもないことになると直感した。――死を支配し、魂を滋養とするものの手先が狙いを定めている。そのような気配が濃厚に蟠って、早彦を拉致するようにも思われた。
 意識と肉体の隔たりの空間が凝結して、肉体へ還る動きを阻んでいた。恐慌をきたしそうになっていた早彦は、無理やりその隔たりを突き破った。そして、急いで肉体に潜り込もうとしたが、すでに容れ物自体が拒絶反応を示し始めており、大きな困難にうちひしがれた。それでも、ようやく元の場所に戻り着くことはできたのだが、凄じい恐怖によって、肉体も意識も張り裂けんばかりに戦いていた。早彦は恐怖に逐われるようにして、肉体ともども覚醒しようと試みた。だが、それは峻烈ともいえる肉体の激痛を伴った。全身麻酔から瞬時に蘇生するときのような、筆舌に尽くしがたい麻痺がその正体だった。肉体は微動だにせず、鮮烈に痛点を開いた感覚器と、中途半端に弛められた痙攣性の麻痺が、早彦全体を圧し潰そうとしていた。
 早彦は、どこでもいい、躯のどこか一部分を動かすことさえできれば、この苦痛から、この悪夢から逃れられると思った。それは意識と肉体の接続を意味した。全神経を集中し、死力を振り絞って、なんとか右手の人差指を動かそうと努めた。けれども臍の上で組まれた指は質感を恢復せず、隣の指や絡められた左手の指との接触感も生じてこない。早彦はさらに力を罩めた。突然、まるで数万ボルトの電流を浴びたかのような衝撃が全身に疾った。そのとき、早彦の人差指がわずかに動いたのだった。
 憑かれたかのように目を瞠いている早彦の全身は汗にまみれていた。体重が半減でもしたかのような深い脱力感に囚われていた。
 ――このことがあって以来、早彦は、肉体から脱け出ようなどとは考えないように努めた。

 ところで、早彦は幽霊を見ていた。研究室の窓辺から戻ってきて、どのくらいの時がたったのだろうか。容易に寝つかれないので、思いを決めて肉体と魂の分離の術を試みていたのだった。その程度を、催眠剤替わりになるくらいのものに控えようと考えていた。寝台の白いシーツの上で、細い躯を人形のように静かに伸ばし、心臓の上で指を組む。半覚半睡の状態をめざしながら、夢を見るようなつもりで、ただ意志だけを鞏固にしていた。やがて肉体の感覚が失われてゆく。いまだ――、早彦は考えていた。いま、躯を脱け出すことも、夢を自在に操ることもできる、と。
 幽霊が訪ったのはこのときだった。部屋のドアが鍵のかってあるのにもかかわらず、音もなく開き、すでに、その前には、白っぽい、やや薄汚れた長い布を肩からすっぽり纏った男が、目を爛々と光らせて、漂うごとくに佇んでいた。
 おれの胤、おれの分身、一族の者よ――、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのような思念を、心と心を結ぶ対話の術で、早彦に言葉を告げたのだ。
 ――おれは十三年前に、悪逆無道の罪人として死一等を与えられた。爾来、悪逆の念としてこの世を呪いつづけていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った男だ。おまえの母親は自ら進んで、このおれに抱かれたのだ。
 早彦は、忌わしい緊張感などというものに囚われない自分に驚愕していた。幽霊の語る言葉がよく呑み込めぬままに、ぼんやりと寛いでいた。なつかしい匂いを嗅ぐような気もした。
 その幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、物そのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れているせいでもあった。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。その繊細さは、早彦の捏造する夢の中の登場人物に共通する、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってきた。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。
 ――おれが何ものか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。
 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真黒な渦が巻いているように感じられた。至るところで微細なまでに振動する空気の、その全ての粒子が、早彦の全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついていた。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。凍りついた早彦の眸が布の向こうに捉えたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、身動きひとつできないでいる早彦を睨めつけていた。
 どれほどの長い時間が経過していたのだろう。本当はわずか寸秒のことだったのかもしれない。浮游する顔は初めから色彩を失っていたが、首だけになると、褪色した薄い皮膚はみるみる涸び、ついにはかさかさになって剥落していくのである。鼻梁や耳朶もその形を崩し、軟骨がこぼれ落ちる砂のようにさらさら音をたてて空中に四散していく。ただひとつ、その姿をとどめているのは、剥き出しになった裸の眼球だった。網目状の毛細血管に絡みつかれ、燠火や鬼火を思わせる血の塊となって膨んでは萎む眼球が、闇の中で妖しく炯っていた。――なんというおぞましい事態。死そのものの無機性である頭蓋骨の中央で、不吉な生を暗示する怪異な二つの眼球の蠢き。早彦は、睡眠時の瞼の下で活溌に跳ね廻る眼球運動の、見ることへの異様な執着を思い浮かべた。
 髑髏は空中の一箇所にとどまることをせず、後方に退いてはまた早彦の目前まで迫り、まるで球面を無軌道に滑りつづけるようにして早彦を威圧し、執拗に、見ろ、よく見るのだ、と繰り返していた。そのうちに、骨の廻転体に象嵌されている眼球の、青灰色の中心近傍も、どんより濁った暗灰色に変じ、血脈によって隈取られていた暗褐色の外縁部も、涸いた黒い色へと色調を落としていった。それからしだいに眼窩の闇へと沈んでゆき、そのあたりは落ち窪んだ翳りだけがつづく深い洞窟を思わせた。
 形骸と化した髑髏はそれでもなお飛び廻り、幾度となく早彦の目の前に迫っては、純白に光る歯ばかり並ぶ口蓋を噛み合わせ、まるで早彦の細い喉笛に喰らいつこうとでもしているように見えた。闇に浮かぶ白い髑髏、それは己れの躯を捜し求めているかのようだった。――おれは頭蓋骨だけで生き永らえているのだ。おれの輪廻転生はこの頭蓋骨に凝結し、おれの呪いも、おれの残虐無比も、ここにきわまっているのだ。髑髏は宙宇の一点に静止して、闇の根源である暗黒の点のように、そこだけ無限の深い暗がりをつくり、暗箱の中にしかありえない絶対黒色の描線で、頭蓋骨の全ての稜線を描き出していた。
 ――わが裔よ。数万年を古りたわが血の(うから) よ。おれたちは頭蓋骨だけで生きている。おれたちの永劫の魂はこの骨の中に封じられて、決してどこにも去ることはないのだ。おれたちの肉が滅びようと、おれたちは地を充たす地の塩となって、死ぬことはない。時がおれたちの味方だ。世界の滅びも、おれたちには無縁だ。
 早彦は、静止したまま地の底から涌き出るような暗い言葉を告げる幽霊の、いまやただひとつ残された髑髏に、一角獣のような角が生えているのを認めた。そして、その髑髏が、研究室に秘匿されていた頭蓋骨そのものであることを理解した。
 ――おれたちは純粋に本来的であって、冒されるべきものではない。なぜなら、わが眷属は人類の唯一の始源だからだ。おれたちには全てが許される。わが眷属は神なるものさえ凌駕する(うから) だからだ。
 年若い早彦に、幽霊が何を伝えようとしているのかは分かりようもなかった。だが、なぜか、不思議な感銘を受けていた。数万年を経た黴臭い澱んだ空気が体内を侵しているように思われた。なつかしい死者たちの塩が、部屋に、体内に充ちている。早彦は、名づけうべくもない戦慄が兆しているのをおぼろげに知った。
 闇の本体と化した髑髏は、全ての暗黒を呼び寄せる動きを終熄させたように見えた。そして、その暗黒自体がまるで光の性質をもつもののように、漆黒の闇を黒々と燦かせた。次の瞬間、髑髏は周りの何もかをも根底から破壊するような凄じい速度で部屋の中を疾った。その行手には光を遮るカーテンと窓がある。早彦は、遮断するあらゆるものが吹き飛び、大きな爆発音とともに粉々になるさまを予感した。そして、粉砕時の轟音が耳に達したかのような錯覚に囚われた。しかし、髑髏は窓に衝突すると同時に、まるで吸い取られるような具合に、音をたてることもなく、忽然と姿を消したのだった。
 呪縛を解かれた早彦は弾かれたように寝台から飛び起きると、カーテンをはねのけ、ガラス窓を開け放った。明るく澄んだ朝の光がいちどきに注ぎ込み、地上のいかなるところをも照らし出す太陽が山の端から眩い姿を覗かせていた。仰ぎ見れば、広大な空は、真夏の一日の始まりに似つかわしい、目のさめるような青空だった。惜しげもなく溢れる早朝の清々しい光の洪水の中で、病院の窓という窓が空の色を映し、鮮烈な山々の緑を映して輝いていた。
 早彦は悪夢から覚醒したような安堵を抱いたが、思い直して身を乗り出し、階下の一部屋の窓を見やった。光の充ちている世界の中で、研究室の窓だけが絶対の暗黒を保っていたのだった。
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