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【poetics】紙田彰



『明治大学新聞』第1309号昭和48年11月15日付(1973.11.15 写真も同紙掲載、22歳当時)
現代詩論〈上〉

徴候としての現在
  〈作品言語〉の夜に向けて


「ところで、現代が誕生の時代であり、新しい時期に至る移行の時代であるのを見ることは、別にむずかしくはない。精神は、これまでの自分の生存と考えの世界に別れをつげて、それを過去のなかに沈め去ろうとしており、自己を作り直そうと努めている。なるほど精神は安ろうこととてもなく、いつも前進する運動を続けてはいる。けれども、子供の場合、長く静かに栄養をとったあとで初めて息を吸うとき、それまではただ増して行くだけだった前進のあのゆるやかさが断たれる。つまり質的飛躍が行われる。そして今ここに子供が生まれてくる。それと同じで、自己を形成する精神も、おもむろに静かに新しい形態に向って成長して行く。自分のこれまでの世界という建物の小部分を、次から次へと解体する。だから世界が揺れ動くのは、個々のきぎしによってしか暗示されないのである。現存するものの中にはびこっている軽卒と退屈、未知のものに対する定かならぬ予感などは、何か別のものが近づいているという前ぶれである。全体の相(すがた)を変えなかったこのゆるやかな瓦解は、電光のように一挙に新しい世界像をそこに据える日の出によって、断ち切られる。」
(ヘーゲル『精神現象学』序論より、樫山欽四郎訳)

 現在が現在を生み出す、己れを生み出す現在はあらゆる旧知のもの、神話、権威そのものの全体性をまたたくまに解体させ、己れを生み出す。時代は如何なる切り口においてもその徴候を呈し、まさしく、時代の末期的徴候において連続的に生み出される現在を暗示する。あらゆる権威とそれに寄与すべき宿命をもたされた作風は、完成度の高い構築物として、その緻密さ、構成の統一をめざしてはいるが、それこそ「徴候」そのものとして己れを壮大な瓦解に導くものに他ならない。
 現代詩において、これらの建築物に充たされている「作品―情況」というものはそれのみによって、既に徴候である。その徴候が己れの未来との接点として現われるとき、それらの建物の群自体がそのことに正面きって向きあえないばかりか、そのことを葬り去ろうとしている現象は、逆に徴候を鮮明に浮かび上がらせる。それと同時に、建物自体は腐蝕・手抜き工事などという他愛ないものにではな<、己れがめざした堅牢なる整序によってこそ己れの解体を進めていく。だが、それらは依然として「兆し」である。「兆し」は幾度となく葬り去られることによって、あるいは補修されることによって隠蔽されはするが、次第に、あるいは急速にその規模を拡げ、他の幾つもの「兆し」と通じることによって、それらの応急の策には手の届かない決定的なものとなる。結果的には、それらに身を委ねようが委ねまいがおかまいなしに、それらは己れを展開する。時代がまさに洗浄するわけではあるが、少なくとも、現代詩の尖鋭を自負するならば、これらを導き出し、導き出すことによってあらゆる加速の渦として己れを投入することが詩人の己れに課する任ではないか。

 詩は、自体己れを切り拓き次なる己れを生み出す、とどめようのない加速の渦の総過程である。「意味」とか「価値」は建物の内容を示しはするが、作品のこの尖鋭性のうちでは「ありうべきもの」ではなく「あったもの」の検証である。作品の本質は「ありうべきもの」の連続性のなかに己れを実現する。だから、作品は己れの「あったもの」、つまり解体され尽くす己れの徴候として、己れを取り扱う。その意味で現在の「作品―情況」は「検証」の水平軸を拡げそれを「尖鋭性」の軸へ横すべりさせるという錯覚によって構成されている。
 それらを少なからず根拠づけるものに、思想家吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』が存在する。ここで、この労作からキー・ワードを引用してみよう。

「自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度をしめす尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする言語の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。」

「言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語構造の全体の関係である」

「意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係を価値とよぶ」

「ある芸術・又学の〈作品〉は、上部構造一般ではなく、個性的な具体的な表現である。この表現は、たとえば文字又は音声による対象的な固定化によって表出の一般性から突出したものとなる。ここでは〈作品〉は、作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活にそのまま還元(reduzieren)することはできなくなる。ここでは意識の表出が、産出(proreduzieren)することはできなくなる。ここでは意識の表出が、産出(produzieren)としての表出に転化するのである。芸術・文学の作品が、意識性の還元も、また逆に土台としての現実社会への還元をもゆるされない性格を獲得するのは、ここにおいてである」

「言語の価値を還元(reduzieren)という概念から、表出(produzieren)という概念の方へ転倒させることによって、文学の価値はただ言葉の上からは、きわめて簡単に定義することができる。自己表現からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ」

 吉本隆明の文章のいずれもがそうであるように、総合的思考あるいは本質的思考に向かっているために、あるカテゴリーを限定して論ずる場合、非常に困難である。というよりも、ある領域での論及と思想へ収束させる相対性とでは論及のベクトルが異質なのである。だから、このベクトルの差異をさらけ出すことによって、領域ごとの検討を浮上させればよい。吉本の思想への全体への論及は、別稿ではたすとして、ここでは「作品言語」に関して論述する。
 まず、この著作の対象となっている「言語」は、吉本の思想的記述を託されたそれであって、独立した〈言語〉のそれではない。だから、これは観念(幻想)と現実との関係性における観念世界の自律を〈表現〉という現実への表徴の側から検証し基礎づけたものとして見做すことができる。ここでの〈表現〉とは観念(幻想)と現実の相渉る〈場〉を意味し、この〈場〉を思想へと転位させるために「自立性」に引き寄せ、独特の「表出」概念に至るのである。だが、この構造の全体を蔽うのは「思想」としての個的観念世界である。ここでは、〈言語〉は機能として捉えられることにより、〈表現〉がより先行し、〈表現〉は「自己表出からみられた」関係の「価値」にさらされることにより、〈思想〉がより先行する。観念(ことば)が現実行為の疎外形態としての出自をもつように、〈表現〉された〈作品言語〉は観念の疎外形態としての出自をもつ。故に観念(幻想)が自律し観念世界を構築する如く、〈作品言語〉は己れの宇宙を形成する。
 吉本の場合、〈作品言語〉を言語の一般性へ還元するために、この関係を観念が内―外的な関係性の故に現実へ「こぼれ出る・出ざるをえない」故に、「出たもの」として扱うため、その関係性を根拠に言語に対する自己の観念(幻想)の優位性をみている。一応は「観念生活にそのまま還元できない」としておきながら、「自己表現」にひきよせ、「文学の価値」自体を単独に扱えずに、故に「文学」作品自体を「表出」に従属させる形で意味と価値とを導き出す。だが、〈作品言語〉が「作者の意識、あるいは精神あるいは観念生活に還元することはできなくなる」いわば、観念自体からさらに観念化されたものであるということは、観念が現実に対してその独自性を発揮することにアナロジカルに、観念に対して独自性を発揮するといえよう。〈作品言語〉が「表現」(現実性)を媒介にして登場するのは、逆にそれらに付随しているのではなくて、それらから全き無縁・異質のものが結果としてそれらを使用しているに過ぎない。〈作品〉が作家とその観念を媒介にして登場するのはそれらに付属しているのではなくて、ついにそれらから無縁・異質のものが結果としてそれらを使用しているからに過ぎない。
 だから、「たとえば文学又は音声による対象的な固定化によって、表出の一般性から突出したものになる」のではなく、そもそも「表出の一般性から突出したもの」が、逆に「対象的な固定化」を通して、〈作品〉となる。故に、言語の意味と価値とは、〈作品言語〉においては、作家の表出からみられた言語構造の全体でなくて、作品からみられた結果としての表現の言語構造の全体である。これは、還元すれば、意味と価値とを無に帰する作品自体の己れの極限へ向かう、彼方から現在を通貫する〈まなざし〉のことである。
〈作品―情況〉論が可能なのは情況を畑にした作品の情況的な切り抜きではなく、作品の生み出す情況を視通すことによって、作品の極限へ向ける加速力をおびき出してやろうというからである。作品が何処へ向かうかははっきりしている。それは、己れの厖大なるエネルギーを収束させて極限の作品自体と成り果てて、全宇宙とともに真っ黒な無の穴へまっさかさまに転落していく。詩人の宿命はその作品の純粋上昇(?)にぎりぎりの加速をつけることにある。時代時代の作品の良し悪し、意味と価値は、ただに錐揉み状態で直進する作品宇宙の襞程度に過ぎず、ついに偉大なる作品はそれらの襞をふるいおとしてその群の最尖端で強大な磁場を恐怖のうちに創り出し、己れ自らまっさかさまに無の穴へ飛びこんでいく魔の帝王のようなもののことだ。
 マルクスのいう〈類概念〉は、まさしくここでは、類として生きて、その類ともども滅亡の無へひきずり込む作品総体の極限を意味する。
 まず厳密に規定しておく必要がある。それは〈ことば〉に対する種々の錯誤を打ち破るためにである。一般に〈ことば〉は、その発生から、日常語、さらに言語学の対象のそれから〈作品〉の宇宙をも含めた形でいわれる。だが、ここでは、〈ことば〉と関係性を結ぶ観念の形態として、「日常言語」(パロール)を交換価値としての語とし、パロールが社会性のうちで共同規範として上昇する過程を学的な対象の言語とし、これらを言語の現実性として包括する。ここで取り扱う言語は、これらと異質の相において、つまり〈作品〉宇宙の、いわば一般の表出を突出せしめて作品へ到達させる〈作品言語〉である。先述したように、観念の産物、疎外態として上昇した〈作品言語〉は、己れの極北へ向かうために〈表現〉という現実形態をとり、故に、観念と〈表現〉へ媒介する言語の現実性に、ある〈関係〉をとり結ぶ。この〈関係〉の総体が〈表現〉である。そのとき作家主体は己れの観念自体をその〈関係の場〉に投げ出すことによって〈語〉を選択・使用するに過ぎない。ここでの作家の〈時間性〉こそ、一種〈あいまい〉な関係性を〈純化〉すべき厖大な歴史性の必然として〈作品言語〉と〈語〉との関係性に〈形態〉的上昇を遂げさせるに至る。まさしく、作家の主体的必然とは、観念を上昇することによって〈作品言語〉として遍在する作品宇宙(発生の根拠であると同時に全体性)と〈語〉を媒介することによって到達する現実との狭間において、それらとの相互的な関係性を唯一保有し得ることの帰結だというに過ぎない。それは、まさしく情況の時間によって前提化されたものに他ならない。〈先験性の闇〉(北側透)などではなくて、「開かれ」、まばゆい昼光にさらされただけの「先験性」というべきであろう。それらの明視されつづけ、それこそ風化したものを手触りして試行錯誤を繰り返したところで、得られるものといえば〈検証のがらくた〉に過ぎない。

「つまり、入沢の言う《ヴィジョン・感情・思想・体験・その他》とは、人間が《彼の生活行為そのものを彼の欲望および彼の意識の対象とする》ことに、その発生を関係させているものにほかならず、幻想としての人間が、人間であることの確証としてもっているものである。まさに幻想とは幻想化された存在であって、その意味では、たしかに《詩人はまず表現したいもの》を持つわけではない。《表現したいもの》をもつとしても、詩人とは表現せざるを得ないところまでその幻想の内部の時間性がボルテイジを高めている人間であるといった方がいいだろう。そのようなものとしての幻想的生活、その時間性の累積を詩人はまず持つのである。持つといっても〈表現〉と離れて持つことができるわけがないのだから、持つことを〈表現〉の過程としているといった方がよい。」(北川透『仮構詩論へ向かうノート11片』)

 たかが、詩人の思想とか存在が詩を超えるなどと考えただけでも胸糞がわるい。「《表現したいもの》をもつとしても、詩人とは表現せざるを得ないところまでその幻想の内部の時間性がボルテイジを高めている人間であるといった方がいいだろう」。この文章における用語がかなりあいまいであることなどヤユしたところで始まりはしないから、北川の思いつめたまじめさを汲んで、読み取ろう。そうすると、詩人とは個的幻想性の時間性を共同の時間性と拮抗しうる水準にまではりつめさせることによって、ボロッと、ウンコのように詩がとび出してくる人間とされる。ウンコをしたいなら、何も腹が膨れてからするようなガマンなど必要はない。時期に合わせてしたいときにする方が健康的だろう。それほど高めるべき心的時間性が詩人にあるとは思えないが、それほどボロッと出したいなら政治的な駄文を書いてストレスを解消したって変わりはない。人工的な方法で、浣腸液などたっぷりつぎ込んだり、下剤でもって慢性下痢症状を満喫すればいいだけの話だ。そもそも「表現せざるをえない」ものが《彼の生活行為そのものを彼の欲望および彼の意識の対象とする》ことに、発生を関係させ、人間であることの確証としてもっている《ヴィジョン・感情・思想・体験・その他》であるならば、なにも詩的表現によらずともさらに現実的に近い表現形式が可能なのだ。作品と「言語の思想」とが切れない関係で結ばれている人間が、そこで「何故に詩なのか」をいうよりも、詩のほうからそれらを払拭するに過ぎない。

「こうして、私たちの時代の《ヴィジョン・感情・思想・体験》の高さと深み、その豊かさの水準を規定してくるものは、太初以来の人間のこの幻想生活、その時間性の累積である。しかも、この幻想生活の累積そのものは単に個別的にあるわけではない。私たちは〈自己〉を創る。その同時過程において〈他〉を創るのであり、言いかえれば関係(他者)に規定されてしか自己創造はありえない。そして、この個別性と共同性との矛盾を媒介的に止揚しつづける意識の〈運動〉領域に、私たちの一切の〈言語表現〉があるわけである。もし〈言語→表現〉が単に自己創造的なものでしかないなら、それは動物の生活行為と変らず、そのことにおいて、それはまた本来的に〈自己〉を創り得ない。そこでわたしたちは、みずからの〈言語→表現〉のうちに自己本質をみると同時に自分に対しては〈表現〉が〈他者〉として、あるいは関係性としてしかありえぬことを見ることになるのである。こうして、自己と自己、自己と他者との二重の関係において、詩人が表現せざるをえない〈何か〉に突き動かされた存在であること、そのこと自体は否定しようもないはずである」(北川透『〈像〉の不安』)

 ここで、北川は詩人の表現の根拠を他者に規定された自己創造という関係性にみている。ここでの彼の把握は、「自己と自己、自己と他者」という関係性のうちで〈何か〉に衝き動かされた存在として詩人を規定する。だが、この把握はそもそも〈作品言語〉を詩人の内的世界にとどめたものとして捉え、そのため詩人の意識を相対的に規定する〈情況〉(この場合は、生活という包括概念として)、切っても切っても切れない絶対的な関係性としてこれに引き寄せる。無論この発想にみられるのは、作品が、詩人という情況的存在を通過し、〈表現〉という五感のいずれかにおいて感得できうる形で現出するという、作品の外皮に(結果として現われざるをえないものに)思いをかけるところからくる。だから、それが作品の内容として入り込んでくる場合に、意味と価値が、〈情況〉の側から問題となるのである。北川の詩的シェーマは次のようになる。まず、詩人の現存性を情況という関係概念で措定する。次に、詩人の意識の領域から作品を自己意識の自立した世界とみる。さらに、作品は言語によって眼前に提出されるのだから、〈言語〉という共同規範に蔽われる。だから、単一の個が情況の中でどれだけ個を実現できるかというシェーマとアナロジカルに作品を情況に対応させている。ここでは〈情況〉が作家から作品を均質に蔽う絶対性として提出されているに過ぎない。だがこの〈情況〉円環は、まず意識の領域における作品との関係を直結するという錯誤によって切り取られる。というのは、たとえ自己意識と作品との関係の中に対象化した自己を鏡のように措定しようとも、〈作品言語〉は情況に規定された自己意識との相対的な関係性をもつとはいえ、絶対的な関係としてはない。仮に絶対的であるとするなら、それは〈作品言語〉を機能的に使用する場合である。作品における〈言語〉は自己意識を機能的に伝達するものではなく、〈言語〉が自律運動を展開する、作品へ向かう総体の構造から、〈表現〉としての〈ことば〉という結果を示すだけである。ここではっきりすることは、詩は作家主体の「自己表現」などではなく、「自己表現」などというのは外皮であり結果でしかなく、ついに詩は作品―言語自体の形態的現実なのであるということであろう。

「それに関連して考えるとすれば、〈沈黙=人間的受苦(ライデン)〉が有意味性を獲得するのは、〈発語=人間的能動性(ヴィルクザームカイト)〉の意志に規定されることにおいてであるといえるだろう。逆にまた、〈発語〉が単にしゃべることを越えて、垂直的な価値の階梯をはせ登ることができるのは、〈沈黙=受動性〉に規定されることにおいてであるといえる。〈沈黙〉が魔的なものとなるのは、〈沈黙〉が〈発語〉に規定された〈沈黙〉として、つまり、内部への閉じこもりのままで、〈発語〉の意味にふくれあがるときである。
 このとき、〈沈黙〉はまだ発せられていない、閉じこもりとしての魔的に変形された恐怖の言語に満たされているといえるだろう。何故、恐怖の言語であるかといえば、それが何らかの〈共同体〉や〈集団〉内部の禁忌に触れるため、〈発語〉の水準でおさえられて内部に逆表出されるように閉じこめられているからである。それ故に、〈沈黙〉を意味性としてみるということは、〈共同〉なるものの〈禁忌〉のために、黙せられるという受苦が、〈発語〉という能動性に規定されて、個体の内部に向けてのみ、逆表出される不可視の魔的な言語としてみるということもいえよう」(同)

 この北川の〈沈黙〉に関する考察は、詩人を書くことに衝き動かす〈何か〉をみつけ出そうというためのものである。しかし、ここで扱われている〈言語〉の水準は、詩人が社会的存在であるという現実性における〈情況〉の言語という水準である。だから、〈作品言語〉が〈情況〉に包囲されている詩人のもの、という直結・短絡させて得た命題を〈情況〉のレベルから検証する作業とみてよい。北川の使用する、〈言語〉とか、〈沈黙〉とか〈魔的〉なるものは作品の〈ことば〉の水準から大きく転落している。故に、ここであげられている〈禁忌〉は〈共同性〉と〈個〉の関係性として、それが〈作品言語〉への構造的な展開へ転換されるものとしてではなく、それ自体を無媒介に裸のまま〈作品言語〉へ紛れ込ませているに過ぎない。〈沈黙=人間的受苦〉というのは、世界を凍りつかせるために媒介的に機能させる言語という思想の現存性のことであり、〈発語=人間的能動性〉とは思想が現実に転換される結果としての自己思想の表明である。だが、これらは個々の思想の遍在を本質論と現象論にふりわけていっているだけで、作品世界へ向かう言語の問題とはせいぜい相対的な、あるいは詩人の独断的な動機としての関係にあるだけのことである。また、こうした思想への発想が思想の自律へ向かうことも不可能であろう。「魔的に変形された恐怖の言葉」とは、書くことの根拠を自己の意味へよりかからせる機能にあるのではなく、〈作品言語〉が作家をおびき出しあらゆる妄想を自己に還元しているという、思わせぶりの仮象の形態をいうのであって、そんなものは己の存在を震撼させる恐怖なのではなくて、〈共同性〉に叩きのめされる程度の軽い政治的表明でなくて何であろう。この北川のいう〈情況〉とは〈共同規範〉によって完全に蔽われているということをいっているだけであり、〈失語〉とか〈空語〉とかの〈発見〉は「どんなに私たちの〈情況〉が苛酷であり絶望的であっても、人間の〈本質力〉についてそのようなイメージすることを失っていくとき、わたしたちは必ず、内的な抵抗力を喪失していくことになるだろう」(同、四二ページ)というアジテーションにつながっているだけであり、吉本隆明の〈沈黙〉の考察が共同規範の構造的な展開に充ちているのに比すならば、何をいうか、である。
(以下、次号)


(c)1974, Akira Kamita

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