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【poetics】紙田彰



『明治大学新聞』第1314号昭和49年4月4日付(1974.4.4)
現代詩論

〈岐路・迷路〉
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて その1



 異なるものが、激しく、夜の全体を打ち震わせ、睡眠の底に貼りつく、悪鬼の、溌剌とした瞳と交合するときに、あのただひとつの、妖気に閉ざされた入口を垣間見ることができる。そのとき、落雷が。まるで花吹雪に直立する狂気の一群とともに。その地帯に、一斉に埋葬され破裂しそうな病巣。それを同一の空洞に見たて無限の異質な空洞へ向かわせる屍。だがその迷路こそが夢をいいあてる。その夢とは何か。夜がまことにそうであるような、X線で透視するときに映る翳、余剰のものをまるで存在していないかの如く取り扱う紙面。だがそれは断面というよりは、ごく部分におけるあらわれである。この夜が包み込む、実在としての白昼。だから夜は記憶の外にある。夜は、異なもの、正常でないもの、関係の外にあるもの、現存でないもの、のうちに追いやられている。だが夜の風土からは、白昼、正常なるもの、現在は、すでに葬り去られている。夢はその儀式であり、すでに死んでしまったことを入口とする、つづきの回廊でこそある。「語」はここでは、つづきの回廊を逝くもの、夜と交わり、そのうちに己れの異なることを使者として向かわしめるものである。「受感」とは、この夜の底にありながら夜と交わり、そのことによって「語」と交わることをいう。
「語」の暗示するところのものは、「語」自らが突き動かす向こうのものへのかかわりの構造である。向こうのものにとっては、それは、はねのけ逸脱すべき過去である。「受感」とは、そもそも「語」自らが、向こうのものへ己れを仮託し、自らを拭い切ることの地平に、己れをさらけ出すことの、「語」自らの未来への受容を意味する。
 換言するならば「A」という表徴のもつ、視覚性、音の高低、リズム、意味に到達する喩、価値を構成するサンタクス、それらをまず第一に、時間的・空間的に変容させることによって、「A」の現在からその表徴を一切消去する、そのことにおいて「A」の全体性に、代わりとしてあらわれる「欠如」の特異な空洞(それは、すでに「A」ではない、欠如としての「A」に、まるで「A」そのものであるかのように重ね合わせていく「A」の向こうのものへ至る磁場である。)をまず持つのである。この「欠如」の空洞「A」は、すでに「A」の現在とは異質の時間的・空間的構造を持ち、そのことによって「A」はもはや裸のままさらし者にされ、己れのうちに閉じこもり、閉じこもることによって、己れの未来に我が身を仮託し、「A」の現在をその空洞からひっくり返し、だから閉じこもりは空洞「A」へ拡がることになるという、この自己増殖の受容こそが、向こうのものとの関わりの始まりであって、この連続する不連続の時空こそが、「語」が「語」へ向かう根拠としての「語」の受感を示す。
「語」は、だから、裸になることによって、裸以前の己れの現在を全否定して、そのことによって裸である己れの空洞をひっくり返し、現在を包み込み、閉じ込めてしまい、己れの体腔をその表側の世界に転変させてしまう。そしてさらなる「次の語」において、空洞の裏返りの、マイナスの自己増殖を遂げるのである。
 伝統的な風土では、作品は、多かれ少なかれ「感動」とかの絶対神によって批評される。だが、この「感動」という神話は、あらゆる機能主義に充ちている。というのは、それは、作家の自己実現のもっとも機能的な、すべりやすさということのあらわれであり、批評家にとっての受容しやすさのあらわれであるからだ。「語」はそこでは、この俗物どもが執り行なう、商いの儀に供されるイケニエであり、「語」の自己増殖の世界さえ、「方法」の解釈学によって俗物どもの慰安物とされてしまうのである。「語」は、つねに、思想の、生活の、ヴィジョンの、体験の、交換物として扱われている。ここで彼らにとって必要なのは「語」そのものではなく、その交換しようとしているもの、感動の体験、あるいは体験の感動なのである。
 作品に関して、およそ追体験という発想を一掃すべきである。つまり、「語」を媒介機能として、作家と批評家の心理の交換などに「語」の本来はないのである。「感動」などというのはこの心理の交換であり、如何ようにも個人的な事情の範囲を出ない。というよりも、存在であることの個のあらゆる規定性に従順な「通用語」こそが、このレヴェルでは支配的なのである。だから「語」はそこでは代弁者であり、その本来は代弁者の背後に隠された作家の貌に過ぎない。「語」は未だ、「語」としての存在を示すことができない事情に抑圧されてはいる。だが「語」は完全に己れを失わせしめられているかといえば、そうではない。「語」はなによりも、己れを抑圧しているものに対して、背理とでもいうべき浄化作用を行なう。それは作家と批評家を繋ぐとされる「感動」という基準を、技巧というレヴェルに引き戻すことによって、個人の事情にはね返すという還元作用をまず行なう。ついで、この作用によって、批判を重ねていけばいくほど個人的な事情は事情通によって飽和状態に至り、そのため事情通の求めるものは単なる技巧のレヴェルとなる。ここでは感動を受容できるのは、もはや批評家ではなく、初めてそれに接するものという逆転が行なわれる。感動を批評の原理とすろ批評家は、自らおよそ感動とは無縁のものとなる。作家においても同様である。書き継げば書き継ぐほど、己れの原理から縁遠いものとなる。
「語」がかくして、感動という神に死を宣告するときにこそ、まさしく「語」の本来に至るのである。浄化作用は、思いもかけぬほど強烈に、あらゆるものを無能と下劣さの縁へ導く。「語」を完璧に支配しているという帝国主義者どもは、裏を明かせば、「語」の一斉蜂起によって、現在支配されている低能に過ぎない。作家と「語」がとり結ぶ関係が、書く行為であるとすれば、批評家の対象は書かれた「語」をさらに書き続けるということである。批評家は作品について書く、註釈を、語を。だが、解釈学の徒とはならないのである。彼は、その作品によって、己れの註釈の語という形態を仮りながら独自の作品を書く。
 批評の原理とは、およそこのようなものである。書かれたものという結果に解釈学という死の語を附加させるのではなく、書かれたもののうちに、己れのはじまりを予感―宣言され、それをさらに突き放し、書くことのうちに生きるという、まさしくこれが唯一の原理である。
「語」は、何よりも作家と「語」との受感によってはじまりを示す。このはじまりは、だがはじまり以前の、いわばはじまりへ向かう呪文として、作家と「語」とを書くことに生きさせる最良の状態――憑かれた存在へ導き入れる。作家は、およそ書くことのうちに己れの一切を、つまりあらゆる現在を払いのけて、投入する。作家は、もはや正常と呼ばれる己れのすべてから逸脱する。このとき作家は、己れの現存というあらゆる疎外の表徴である。だが、それは己れを含めた世界から逸脱する道の際にあるというだけで、およそ還元するという世界の習性とは異なっている。作家は、「語」が「語」へと結ばれ作品の彼方へゆきつくうちで、格好の生の具現者である。というより、「語」にとっては作家との密通なしには己れの未来を成し得ない、姦夫という役割を与えられる。だがそれは「語」にとってそれなしには己れを生かしめ得ないという必要条件に過ぎない。「語」は己れの進行において、作家の気質、テクニック、発想、持続性その他を選択することによって、速度を増大させるエネルギー源とする。作家が書き継ぐ場合、この「語」によって選択されたエネルギーと、憑かれることの受感の同調によって可能なのである。

 詩の現在は、未だこの神話の時代ではある。それはともりなおさず、己れの崩壊を示していることのあらわれとしての、パルテノンである。その建造物の内部では、詩そのものへではなく、建造物自体の補修工事のためにのみ、いわゆる、詩論のための詩論、批評のための批評、情況固定化のための情況論がなされている。だが、それ自体すでに己れの崩壊への証しではある。しかし、そうした神官のうちにも内部的な傷口に鋭い視点を向ける者がいるということは取り上げておかねばならない。およそほとんど皆無であるといっていいその中で、異教徒の耀きさえも持っているというのが、岡庭昇という評論家である。岡庭は現代詩手帖に「六〇年代詩の運命」という文章を提出していたが(本紙においても、それについては「徴候としての現在」という文章で取り上げてはいる。)、その総括的なものが、現代詩手帖七四・二月号に「成熟の構造――戦後詩の逆説」として発表されているので、これについて述べてみよう。

「そして、日本の近代詩の主流を形成したのは、こういう技術的なコツに忠実に従って、ことばから認識を、いや表現から生そのものを切り落としてきた系譜にほかならなかった。こういう系譜を、私は『芸』の論理というように呼びたいと思う。」(同)

「芸」による批評において、岡庭のもつものは、このような発想のうちにある。ところで、このような発想こそ詩の伝統のうちにとりこまれているというのは、どういうことであろうか。というのは、この詩の伝統というのは作品に対する人間論的な解釈という底をもった容器の中で、それに従った作家の作品への関わり方であると仮定した上でのことである。だから、岡庭は作家のあるいは主体を作品に貼り合わせていう、というのである。そこからは作品の自律性と作家との関わりの固定化のうちであらわれる「芸」が、逆転して、作品と作家の人間論を切り離す方向一般へと、単直に横すべりさせるという発想がでてくるしかない。だから、いわれている「認識」とか「生」は、作品自体のそれではなく、どうでもいいようなチャチな作家の「見かた」「生きかた」でしかない。これは、故にある種の作家「絶対」主義とでもいえるものである。続いて、

「『芸』は、たんなる技術的錬磨などの問題ではない。生と表現の、もしくは現実を体験することと、それを認識のコードに置くことの、宿命的な裂け目に根ざした、いわば私たちの近代の病に直接つながっていくアポリアなのである。」

 として、岡庭は「芸」の問題を作家と作品との関わりのうちに、伝統としてあらわれることの本質を見落したまま、いわば思想史的な方向の上に、「芸」の問題を重ね合わせようとする。これは、すでに先験性として前提化させている「表現」というものからくるようである。ここでいわれている「生と表現」の構造はそのまま「生活と思想」の関係にアナロジカルである。だが「表現」とは作品の現実的断面であり、結果としての現実であるとするとき、この「表現」は「生を認識のコードに置くこと」という思想の営為からはおよそ遠いものとなる。だから、ここでは触れる要はないが、この箇所の叙述のレヴェルは岡庭の思想的認識を示すものである。しかし、いうところのアポリアなるものの認識が思想史的水準から大きく欠落したものであることは知るべきである。およそ、岡庭の一蹴する「『芸』は、たんなる技術的錬磨などの問題ではない。」という認識こそが、再考されて、その底を覗きみることがなされるべきである。実は、この「技術的錬磨」に向かわざるをえない詩と作家の関わりの伝統のうちにこそ、現代詩の現在がとらわれているのである。

「『芸』とは自己保存の論理であり、防衛の技術である。では、いったい、何から自己を守らなければならないのか? むろん人間存在の本質的な能動性である、思惟することと、日常現実における、自己の即自的な生との分裂から、『自我』を無傷で守りとおそうとしているにほかならない。」

 これは、明確な政治技術論である。その意味では全き正しい。だが、これが作品と作家との関わりについての叙述であることによって、完璧な錯誤である。岡庭は「表現」に関わりすぎる、と前に述べたが、加えて「作家主体」いや「作家」の人間論に関わりすぎるといえる。
「芸」とは、作家の自己保存の論理ではなく、伝統性として現在というかたちであらわされる、作品と作家との関わりの全体をいいあてる原理である。だから、「守らなければならない」のは、作家の所有による作品の、交換過程としての「表現」という二元論の化け物なのである。政治が、つねに交通過程を要する如く、そのさまざまな場面を組織していくという、その場面を、岡庭のように詩の現在へ、逆に「作家」の人間論や「作家主体」あるいは「表現」の絶対化を媒介に辿りつこうとしても、無駄であることを思い知るがいい。次に続く「私たちの近代にあっては、本質的な表現者であろうとすることは、自己を傷つけることに、いやほとんど解体させてしまうことに等しいといえる。」ということが「傷つけたり」「解体させて」しまったりというヒロイックなナルシシスムによって、詩人というチャチな実存から絞りとったって、うさん臭い亡霊もないこと知ってのことと願うばかりだ。だから、「明白な悲劇」(同)どころか、単純で馬鹿々々しいぐらいの「喜劇」でしかないのだ。
「悲劇」を選ぼうが、「喜劇」を選ぼうが、そんなことは作品とは無関係な、俗物の趣味でしかない。

「こういう『危機』を敏感に感じとったとき、必然的に奇妙な倒錯が生まれざるをえない。つまり、『成熟』をかたちとして先どりするという倒錯である。この倒錯は、さらに逆説的な事実としていえば、一義的には、商品としての文学生産を保証されるためになされるのではない。――中略――なによりも、こういう『成熟の先どり』は、表現者(思想者)の『主体(アイデンティティ)を『保証』するためにこそ、必要とされなければならなかったのである。つまり『成熟』の仮構こそが、明確な『主体』の仮構になりうるのだ。私たちの近代の『知』をつらぬく、もっとも基本的で、もっとも宿命的な構造こそ、こういう倒錯にほかならなかった。」

 ここでいわれている「危機」とは、前出の「私たちの近代にあっては……。」を示すものである。だが、「本質的な表現者」とは何を示すのか。また、何が、何に対して本質的なのか。いみじくも、岡庭は「表現者{思想者)」ということばで表わしている。だから、この括弧で括られたものが本質的であり、つまりは「表現者」という現実と「思想者」という本質とのズレ、あるいはあらゆる背理、うらがえり、というこれらの同一化なし得ない関係を、ある種の基準として計量するという発想がある。それ故、向かうのは「表現」自体ではなく、「本質的な表現」としての「思想」なのである。そこから、この本質と現実との矛盾が、いわれている「危機」なのであり、それ故、「表現者(思想者)の『主体(アイデンティティ)』を『保証』するためにこそ」、「成熟」の先どりが必要とされるのである。
 だが、少し待ってくれ。これは短絡ではないのか。というのは、この「表現者(思想者)の、主体(アイデンティティ)」とは何を示すのか、ということである。それは、本質と現実の、だから思想者と表現者の自己同一化をいうのか。あるいは、能動性というところの表現者を指すのか。また、自己の内的世界そのものである思想者を示すのか。それとも、それらとは実は無関係な、俗なる己れの生そのものをとりあげているのか。そのあたりの事情が明確でないということが、実はこの「主体」自体のレヴェルがどこにあるかをいい得ないところのものなのである。だが、感じとれるのは、俗なる己れの生そのものではないか、ということである。というのは本質と現実との自己同一化という本質論に対して、もっとも対峙し得るのは、その本質論を裏返しているような現実性だからである。だからその点でいえば、「仮構」しえる「成熟」とは、その現実性から上記の本質論の仮構なのである。これは確かに「近代」を貫く「知」ではある。だが「近代の『知』をつらぬく、もっとも基本的で、もっとも宿命的な構造」ではなくて、現実を生きる「知」の一つの処方箋でしかない。それはこの文章における「一義的には、商品としての文学生産を保証するためになされるのではない。」という、レヴェルの区分をまさしく裏切り、そのことと軌を一にしたものに他ならない。故に、この「成熟」なるものの「仮構」の「保証」する「主体」とは、「語」の交換過程という社会性でしかない。それは、「語」の〈インクのしみ)としての現実性にすべてを放り込んだところのものである。だから「事態はまったく逆なのではないか?」(同)。その交換過程、交通する〈インクのしみ〉の電圧をあげるためにのみ、ひきつがれてきた「知」という――。そのためにこそ、「ことば」を「表現」というレンズに固定することによって、そのレンズが映し出す奇怪な思想に電圧を上げる任を与えたのではないか。また、俗なる生そのものの絶対性にあえなく「仮構」させられる程度の「思想」が、まことに簡単に「危機」にいたるために、それをこそはぐらかすためのコツが量産されたのではないのか。そして、そのコツの擁護のために、「表現の絶対牲」が根拠としていわれているのではないか。つまり、現実と思想とのふれあいに、アナロジカルに現実と「語」のふれあいの相対性を「仮構」したのではないのか。
 だが、「――現実らしさを仮構するような『方法』が必要とされる。」(同)という岡庭の視点は正しい。しかし、問題はこれ以後なのである。つまり「現実らしさを仮構する」ということの意味である。この「現実らしさ」とは、実はただ単に、方法の一つであるということにはならないで、方法の根底を蔽い込んだものなのである。
 なぜならば、この「現実らしさ」とはリアリスムの問題なのではなく、「語」を二元論の交換過程に追い込んで、なおかつ延命させようとする、あの、「感動」という名の、交換価値、交通のリアリスムを指すのであり、その中身は、それを支える「技術」なのである。誤解に充たち認識とは、作家と「語」との関わりを同一化して視るという伝統であり、これを支える芸の「現実らしさ」なのである。「現前する世界」(同)と結びつけた「ことば」こそが、この始まりであり、その補完物こそ「現実らしさ」である。

「いや、あるいは『技術』としてしかあらわれようのない『態度』があったといったほうが、より正確であるかもしれない。『主体』があって『方法』がそれを媒介して、そして『作品』が形成されるという、段階論の『常識』は、徹底して私は疑われなければならぬものであると思う。特にこういう表出の構造を不可能にならしめているところに、むしろ私たちの近代の本質が存在しているのではないか。ともかくもことばのかたちが定められたとき、はじめて逆に『主体』(自己)の方がそれによって決定される、という転倒こそ、私たちの風土の宿命にほかならなかった。」

 ここでいわれていること、若干ながら把握しづらいことを省いていえば、まず「主体」ということばが、「『技術』としてしかあらわれようのない『態度』」としての、つまり、前に述べられている「仮構」された「主体」を示し、それ故に、それは「ことばのかたち」を定めることに関与している。だから、ここでは「態度」が「ことばのかたち」としての「仮構」された「主体」であるとしている。故に、後半の文章では、いいかえるならば「仮構」された「主体」が「主体」(自己)を決定する「転倒」ということをいっている。だがこの箇所はどうも腑におちないのだ。というのは、岡庭のいいたい点であるところの、ア・プリオリな「主体」と括弧で括った自己としての「主体」との関係が曖昧なのである。これは前に述べた「表現者(思想者)の主体(アイデンティティ)」の問題と、実は等しいことなのではあるが。確かに、「『技術』としてしかあらわれようのない『態度』」が正当な見方であることはよい。だが、これが「主体」と「ことばのかたち」をイクォールで結ぶものであるのかということである。そのあたりから、その「主体」と「主体」(自己)の把握が不明瞭ならざるを得ないのである。ひとつとしては、この「態度」こそが、ア・プリオリに「仮構」した主体、つまり「本質的な表現者」としての仮構を示すというところの、実は「俗なる生そのもの」の側から「本質的な」表現者イクォール思想者の自己同一を「仮構」する、いわゆる主体論的なレヴェルをいうのに対し、つぎには、それによる「技術」への全体の解消(カタルシス)という「芸」「ことばのかたち」という「作品」論に、ダブらせていっているのである。岡庭自身が自覚しえているはずの、「伝統を支える芸」という関係が、ここでは「態度」へ向かって還元されるという破綻をきたしている。
 ほんとうのところはこうなのである。この「態度」、「技術」としてしかあらわれようのない「態度」といういい方が、自らの見措えていた視座そのものを危うくしている。というのは、「芸としてしかあらわれようのない伝統」といういい方において、この区別と関わりの構造を明らかにして、岡庭の性急な結論を拒むからである。「技術」は「伝統」を根拠にして存在する、それはまた「伝統」を支えるのが「技術」である、この関係性をいうのである。だから「態度」とは、ここではまさしく「伝統」としての作品と作家の関わりの構造、つまり「伝統」のひきつぎにおける作家の関わり方の「絶対性」をいうのである。
 何故、岡庭は性急であらなければならなかったのか、ということが次に重要なことであろう。それは「ことばのかたちのひきつぎ」という構造としての「芸」の論理を、そこから文字通りに「ことばのかたち」として、その関係の中からとり出さずに、無造作に、即物的に、まるで「芸」の構造に入り込んでいるもののように重ね合わせて扱って、例えば入沢康夫の「図柄」の問題などを早急にこの中へぶち込んでしまいたい、あるいはそのアリバイ工作の意味があるのではないか。また、作家が「書くことを生きる」ものでしかない、ということをもいっしょくたに放り込んてしまおうとしたのではないか。それが、「仮構」としての「主体」と「ことばのかたち」を同一化して、前者においては作品の形成について、後者においては「作家」の問題へ、いわば互いに脈絡のない二つのものを交叉させて、クロス・カズン婚させる手品を披露することの実情なのではないか。こういう手品こそが、「私たちの風土の宿命」「近代の本質」の、構成のある部分をなす、硬直した党派性に映るというのは何故なのか。
 それ故にこそ、次の文章が続くのではあるまいか。

「つまり、逆にことばの表出のほうを、ある秩序に組織してしまえば、主体(自我)は不在のまま、かたちとして仮構しうる。というみちすじである。これは、ことばから入って、そこにさかさまにうつる現実のほうを手さぐりに追い求めて行くというみちすじとはちがう。むしろ、こういうみちすじが、文学表現の本質にとって必要な転倒であり、転倒を契機とした、『全体』なるものへ遡行であるとするなら、その放棄にほかならないのだ。」

 なぜならば、「伝統と芸」の問題を追い求めてきた岡庭にして、「伝統と芸」との構造的なからくりを、「主体(自我)」不在と「ある秩序」への組織に一元化しているからである。だから、逆に「ことばから入って、そこから現実のほうを手さぐりに追い求めて行くというみちすじ」にこそある思い入れと、その組織化としての芸に対して及ばないのである。「構造としてとらえ」(同)るというのは、実はこのような思い入れとその固定化、つまり作家の絶対性をいうのではなくて、作家と語との関わりの先験性を、その根元から覆すところにこそある。「『芸』の宿命」(同)とは、実にこの先験性と思い入れへの還元のサイクルをいうのである。そしてそれは、限界を絶対性に、自己の観念性へ転化させて、「死語」」の坩堝と化するのである。まるで死者の墓を、木材で、あるいは石で、コンクリートで、共同納骨堂で表わそうとするかの如く。だが死者は、個人として死ぬのではな<、限定された類的存在として死ぬべきである、といわれる如く、類の跡づけの意味をしか持ち得ない。それは己れの類へのみちすじの、ある、限定された、わずかの切片であるだけなのだ。だから死者を装飾する職人たちは、死者を汚濁することのほか、何もなし得ていない。死者はそれらと無関係に、ただ己れの死を類のうちに位置づけるだけである。そしてそのことによってこそ、職人たちに復讐的なのだ。

(以下次号)


(c)1974, Akira Kamita

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