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【poetics】紙田彰



『明治大学新聞』第1316号昭和49年4月26日付(1974.4.26)
現代詩論

〈岐路・迷路〉
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて その2



 光芒の旅程。だが死の群は全天を浮遊しつつ、ぼんやりとした明るみを死の風で焦がしつづけ、熱病の大陸に舞い降りてゆく。文字の並びは酸化を始めながら帰路を示し、尿のように噴き出る夢の数々は、帰路の輻輳としたあとどりに鏡を配置する。回帰するものの行手には、己れを映し出す鏡の迷路が現出し、己れの一切合財の絡み合いだけが循環している。だがその帰路を示すインデクスの向こうにまた、何のあらわれもない無というだけの、恐るべき迷路が存在している。上下左右前後方がまるきりに消失して――。そのインデクスのある地点こそ、岐路を示すものである。
 おびただしい架空。暦を抜け出すもの、脳髄を抜け出るもの、地図から抜け出るもの、地底より這い出るものの織りなす際限のない混濁とその景観。それらを命名するものは未だ存在しえず、歪んだ空のへりのひるがえされた向こうには、険しい棘の羅列がある。それは数億年の集積する眼の痕跡のようでもあり、報復の部族とでもいうべき、無数の不吉さ。
 語の本来は、この妖しき無の迷路のうちを彷徨する無の全体性のうちにある。あらゆる無規定と無為、あらゆる存在論と非在、始源と極限(リミット)、まるでそれらそのものを己れの肉質にしえているもの。語は、自体で逝くものである。それは回帰したり循環したりする余裕などはなく、狂乱的に己れの彼方へダイヴし、そのダイヴの彼方へさらにダイヴしつづける。
 夜の不規則な鼓動がほのめかす、ある瞬間的な断片の開示。それはおよそ想像を絶する無気力と凄絶な憎悪である。語は、規範的なもの、倫理的なもの、正義とか愛を己れの履歴から抹消してゆく。否、履歴をも、己れそのものをも抹消しつづけてゆく。語は、実のところ語のうちにも存在していない。語が語であるということはただの儀式に過ぎず、語の本姿とはその儀式の指示するところのものである。語が紙面にたち現われて、作家との受感という交わりを行うとき、それは作家への復讐を意味し、まず作家を己れのうちから消去する。語は書かれたもののうちにありながら、書かれたことを消去するという、不連続の連続という死の様相に充ちている。

 回帰の構造とでも名称けうるべき現代詩の限界とは、実はいかなるものであろうか。この稿においては、この限界の構造自体を呼び水にして、限界の彼方を指示するという任が課せられている。「伝統と芸」という視点は、まさしくこの呼び水の役に適している。それゆえに、前号に引き続き岡庭昇の「成熟の構造」(現代詩手帖七四・二)に触れるのである。
 さて、考えてみるならば、「伝統と芸」からの逸脱ということは常なる詩人の課題ではなかったか。それは詩人の側にとって、おそらく「態度」としての問題に包摂されるものである。前に述べた「伝統のひきつぎにおける作家の関わり方の絶対性をいう」ところの態度ですら、肝心なところが、詩人たちにあっては欠如しているということほど無残なものも、また、ないのである。
 ところで、発生的な事柄に関与しながらある軸の措定について考えてみよう。まず、「芸術」とは何なのであろうか。それは果たして、わずかにせよ人間社会の、一種効用的なものなのであろうか。また「社会的人間」に何らかを寄与するものなのであろうか。仮に「芸術」なるものの発生が「祭」にあるとして、だがこの「祭」なるものがそのものとして何なのであろうか。少なくとも、この「祭事」なるものが、生産、階級という人間的営為の結実を示すものであるならば、この結実そのものが供されるということは何なのか。ある共同的な指標そのものがそれらの目的であり、他のものは派生的であるとしてもよい。だが何故に結実が人間の側から供されるのか。要は、「芸術」とは人間存在のうちに果たしてあるのか、ということである。また、この曖昧な語法を改めて「作品言語」と明記しよう。そしてこれを「芸術」なるものと峻別してみよう。
 さて、「作品言語」は通用語という、生産的、現実的、代弁的、機能的なものとは異なる、それらを除外して存在する何ものかである、と仮定する。そしてあらゆる附帯物を取り除いたものは、意味もなく、価値もなく、ただ「無」である。例えばこうも考えられる。ある祭事において捧げられる「うた」は、そもそもそのような社会性に対して、その社会性を一点に集中する非社会性である何ものかへ向けられている、ということ。また派生的にせよ、語の社会的な効用から大きく隔たってゆく何ものかへと己れを向かわしめている、ということ。
 とにかく始源的であるにせよ、派生的であるにせよ、詩は存続している。この謎は何なのか。確かに作品は、作家と、社会的なある機能のうちに書き継がれてはきた。だが、作品は、作家のうちに、あるいは社会的な位置づけのうちに己れを生かしめる根拠を与えられているのだろうか。作品は作家に依って書き継がれる。しかしその書く行為は作品にとっての副次作用ではないか。また作品は文字として社会的な流通過程のうちにある。しかしそれは作品の全体ではなく、一断面に過ぎないのではないか。
 視角を転じてみよう。単直に現代詩の限界は何か、ということを考えてみよう。現代詩における強力な共同認識とは何か。それは紛れもなく現代詩の絶対性であり、それをそれと認めうる基準である。それを詩であると認めうるものこそ、現代詩の現在であり、その水準であり、限界なのである。「心を打つ」「肉体を律動させる」「思考を刺激する」その他という、つまり種々の意味での「感動」そのものが、その基準なのである。これは限界であり、限界であることによって正統なのである。この伝統の構造を換言するならば、基本的には「表現」という現実性を根拠にした、作品と作家との関わりの全体であるといえよう。というのは「感動」という基準は、この「現実性」という「あらわれるもの」としての表現に根拠をもつからである。だからまた、「感動」を基準にした、それゆえの作家の「思い入れ」の系譜ともいえよう。だがこれが整合化されたのは、実は「表現の絶対性」という伝統の補足的な底辺である。これらの相互的な関わりこそが、その伝統の枠組みなのである。
 詩の現在、つまり現代詩の円環構造とは何を示すのか。それは言い換えればその限界の全体を指示するものである。だがその限界の全体とは、様々な要素の輻輳によって形成されている。だからここでは、まず詩の尖鋭性の軸と、詩の現在という容器との関わりの問題として述べてみよう。非常に抽象的な物言いをするならば、この尖鋭性の軸とは、詩が己れの彼方へ向けて飛翔する、その過程を貫くものであり、詩の現在とはその節(瘤)なのであり、その節は飛翔する動向に対して、常に閉じ込めるものであり、反作用である。その反作用とは、作品の過去へ向かい、それと同様に現在へ平べったく弛緩し、作品の上昇性をを稀薄にするものである。このような意味で、この上昇の彼方へ突出していくためには、この瘤の内部構造を明らかにさせ、その限界の上辺を批判し、批判することによって上昇性の軸を仮定し、類推していく道筋しか、おそらくないのである。そしてこの相互作用によってこそ、作品の彼方へ向かうことが可能なのである。
 現代詩この瘤とは、まさしく現在の全体である。この全体の構成とは、ひとつには過去を包み込んだという現在の詩の伝統性であり、さらにはこの伝統のひきつぎを基礎にした詩の固定化である。この関わりこそが、円環を結び、作品を恒常的に閉じ込めてしまうのである。だから、流布されている「これは詩だ」というものこそ、この円環のうちに死なしめられている。というのはそのとき、その詩は円環のうちで受容性によって形成されているにすぎないから。そしてこの伝統性を構成するものは、つまりこの円環を逸脱しえないもの、円環に受容されうるもの、制御されたもの、自律性を圧迫するもの、なのである。それは例えば、あるひとつの規範性である。だからそれは現在の薄ぺったく押し潰され、そのことによって稀薄になってゆく、そしてそのことによって受容の支持を克ち取る、またそのことによってこそ円環を保証する。その円環とは、まさしく詩の外部へ向けてする表白の記述なのである。それはまた、この外部へ向かうゆえにこそ、感動という関わりの基準を設けるのである。だからこの伝統性とは、作品と作家の関わりの現在性であるといえよう。作家は詩の内部、その彼方へと関わりゆくというのではなく、それを擦り抜けて、詩の外部、つまり作品という鏡に映した作家の貌、あるいは作家の背後に映っている読者の貌に関わっているに過ぎない。それらはまさしく「関わり」の虚像とでもいうべきものである。この擦り抜けるということこそが、その補佐的なアリバイ工作を必要とするのである。だがそれらは永続的な擦り抜けの循環運動であり、そうした循環運動の中で書き継ぐために、そのアリバイ工作を根拠として絶対化してゆく。だから詩の現在とは、先験性の絶対化という循環の襞の絡み合いのトータルの中で揺動し、その揺動の末に硬化し、ぼろぼろと崩れゆくのである。こうしたアリバイ工作の主要なもののひとつは「感動」の絶対性である。「感動」とは、実はその「感動」の現場の水準を抜きにして、「感動しない詩は、詩ではない」というように用いられている。
 だがこのとき、「感動」とはある通用的な基準でいわれているに過ぎず、作品の本質性とはおよそかけ離れたものでしかない。というのは、作品を通して、作家が読者の貌を見、読者が作家の貌を見るという、作品自体を擦り抜けたものだから。だからこそこのときに、作家の抒情・思想・生活・体験・その他を、作品を仮りて、それにひき写してゆくのである。こうして、そのひき写しの技術論が「芸」として開花するのである。(或る達人が、これもある老練な詩人の凝りに凝った作品の評を請われたときに、実に良くできている、天才でもこのような光沢は出せますまい、実に良い、鈍才が努力に努力を重ねて仕上げた、燻し銀のごとき作品である、と述べた話を記憶しているが、「芸」の本質とおよそこのようなものであり、尖鋭なる詩人とはおよそ無縁の世界のもののようである。)またこのようなものがさらにアリバイ工作を続けていくときに、実にそれらの補完物として「表現の絶対性」に依拠してゆくのである。
 相互的な作品という、まことに複雑怪奇な様相を呈している現代詩の水準は、だがそれらの構成的因子を取り出してみることによって、ある全体のからくりを解く糸口となる。それにはまず、それらからもっとも無縁で、かつ「非」であるものを、つまり作品の純粋上昇性というものを、つまり作品の時間的・空間的外部に仮定することによって、逆照し、ゆえにその作用の骨格を映し出すことが必要であろう。つまり作品あるいは詩は、その現在という全体のうちに存在していないということの仮定、あるいは現在の全体が作品を擦り抜けてあるがゆえに、作品の外部に現在があるという仮定、換言すれば作品と現在の全体とは本源的な結合のうちにはなく、互いにその外にあるものに過ぎない。だから逆照の作用とは、詩の現在という限界・襞の構成的因子を映し出すということである。そのひとつは伝統性ということであり、次にはそれと直接的に作用しあう「芸」であり、また、それらのしがらみ的要素としての「感動」の絶対性であり、さらにこれらを補完的に支える「表現の絶対性」であり、その補完物から逆に相互作用を促していく語のメディアとしての限定、そしてそれゆえにそれらの中間的な位置で関わりを結ぶ「作家」の絶対化・主体論が生まれ、これらのトータルとしての循環運動が、詩の現在の姿であり、伝統の構造なのである。だから、この稿ではそれらの関わりが、単に先験的に提出され、それらを根拠にアリバイ工作を続けているということを指摘してきてはいる。だが問題は、これらが円環を結ぶに過ぎない循環運動の全体であるということである。それゆえに、単に根拠ということが、多岐にわたりながらその相互弁明という形で、その水準の限定性からの問題を取り扱えずに、アリバイとして用いられているのである。
 語は媒介機能である。確かに、それを話す者と他者との交換過程である。だがそれは、その語の存在している位相によって決定的に問題が異なってくる。
 通用語というレヴェルでは、現実の支配法則によって語は規定されている。そこでは、その現実と相対的な存在としての話者の内的世界のひとつの断面としてしか、聞く者の内的世界には位置づけられてはいない。だから通用語という形を仮りて内的世界を表現するということは、内的世界にあって、ある種の現実との拮抗関係として対自性をもつが、現実においては意味と価値というバロメーターによって交換される記号に過ぎない。だがこの関係が、作品の仮定による作品言語の措定によれば、現実との関係においては交換されるべき記号であり、それが作品の断面であり、作品の相対的な独立した世界を想定でき、作品言語と作家との受感の構造もまた、そうした関わりに類推的なものとなる。これは何を示すのか。つまり現実(表現)のレヴェルにおいては、どちらも流通的な価値に過ぎず、だがそれらの通用語と作品言語とを峻別するところの、レヴェルの限定性の問題が示されてくるのである。それはまた、作家の内的世界においても、内的世界の全体性と語との受感の構造とを峻別するレヴェルの問題なのである。「表現の絶対性」という補足的概念に関しては、このレヴェルの問題を浮上させるための、作品言語の仮定による逆照射もまた必要なのである。

 このようなとき、岡庭昇は「芸」の論理を唯一、キイ・ワードにして、作品―情況へ踏み込むわけである。これはまず、「技術的なコツに従って、ことばから認識を表現から生を切り落としてきた系譜」として概括される。ゆえに、「技術的なコツに従って」という「芸」の表徴に対して、「分析的」にそれへ向けてそれ以下の文章を取り込んでゆくのである。それは次のように分離してゆく。前者の表徴に対する視野には、「文学的な『成熟』へのコツ」と「形の仮構」ということがいわれ、後者はその根拠づけとして、「生と表現の、現実を体験することとそれを認識のコードに置くことの、 宿命的な裂け目に根ざしたもの」とし、さらにその根拠の根拠づけとして、「思惟することと即自的な生との分裂から『自我』を守る」という「自己保存の論理」をも組み込んでゆくのである。これはさらにまるで系統樹のように分化して、根拠づけの永続性のごときに至る。だが、根拠づけの対象は、この系統樹を天地をひっくり返したようにその上に蔽い被さり、まさしく永遠の循環性を持つに至るのである。だからこそ、こうした「芸」の論理は、さらに「成熟の構造」として分岐してゆくのであろう。

「現実と表出のふかい断絶に抗って、ことばを定着させようとするとき、自己をその亀裂のはざまに徹底的に追いこむのではなく、代わりに、即自的な体系性を手っとり早く手に入れようとするかぎり、この、仮構の救済の方程式に表現者はかならず把えられてしまうのだ。むろん、ことばだけが存在してみせる(そのことで、仮構の『自我』を獲得する)というのは、本質的に不可能である。」(「成熟の構造」より、傍点は省略。)

 この括弧の内に関しては、そうである。だが問題は、この括弧の内と、それが示す「ことば」というものの関わり、否、限定の問題なのである。ここでいわれている「ことば」は、「仮構の『自我』」として限定されているに過ぎない。そのため抜き難く、「ことば」は常に主体の表出としていわれつづける。この点に関しては幾度となく繰り返してはいる。だがここでまた取り上げるのは、「芸」の論理から成熟の構造、さらに規範の問題に至るまで、この主体がこれらの繋ぎ目として、実はこの系統樹とはカテゴリーを違えたところから補完的に登場するからである。だから岡庭における本質的な問題とは、〈伝統〉―〈芸〉―成熟の構造―規範という側面と、作家主体―表現という側面がトータルに批判の対象となりえていない、あるいは後者を基本的な鍵として前者を解き明かし、構成化していくということである。後者が批判的な対象にならず、それらを先験化させるということ。だからこそ「ことば」は、作家主体―表現というシェーマに限定されたものでしかない。それゆえに「ことばだけが存在してみせる」と「仮構の『自我』を獲得する」ということが直結させられてゆく。つまり「仮構の『自我』」を「ことば」の側から主体と切り離して「ことば」のうちに限定するのではなく「ことば」そのものを先験的に主体のうちに限定しているのである。そのため「ことば」の現場は、主体の存在している「現実と表出のふかい断絶」の場であると限定する。だから「ことば」は総じてこの主体の現場に放り出されているに過ぎない。それゆえにこそ、この「ことば」と主体との関わりが主体のうちに一元化されて、主体の自律のうちに「ことば」の自律は孕まれてしまい、ということは「ことば」の自律性を仮定できえないという限界を持つのである。それがたとえば、

「私たちは、すでにみてきた『成熟』に伴う、ことばと表現者との宿命的な自己放棄=自己仮構の方程式において、『作品』という聖性が、仮構のキイ・ワードであったことを、すぐ想いだすはずである。」(同)

 というように、作品の仮構、あるいはことばの仮構・表現者の放棄が、このように「表現者との宿命的な自己放棄=自己仮構」として、表現者に絡ませ、組み込んでゆく。この方程式が成立しえないのは、それぞれの、「ことば」「作品」あるいは「方程式」が、その前にかならず「表現者の」という語句が貼りついているからである。ここでの「成熟」とは、「主体を保証するために主体を仮構し」、その構造とはそれゆえに「強いられたことばの体系」とされている。それはまた、「現実とふれ合う手前でかならず停止するようにしつらえて、現実らしさを仮構する方法」「現前する世界から切り離されたことばを作品へ向けてかたちづけ、現実らしさを、律・喩の型の伝承としてひきつぐ」という形で、「コツ」として述べられている。だがこれらの分母にあるのは、すべて「表現者」である。ということは、岡庭のこの文章において、その根拠となるものは、〈芸〉の論理を「成熟の構造」に置き換え、そのことによって詩の現在を指示する「伝統と芸」との関係を捨象させ、芸を指示する成熟という、表現者幻想へ転換していく。このあたりで、とうとう本音を吐いたというべきか。というのは、前述した、作家主体―表現を先験的な鍵とする、ということは、実はこの作家主体―表現のレヴェルが、岡庭のいう本質性としての「表現者」(思想者)の「アイデンティティ」 なのであり、これがすべての根であり結末であり、まさに思想の最優先主義とでもいうべきものであるからだ。だから裏を明かせば、結局のところ、示唆的な「伝統と芸」の構造的なからくりが、「成熟」というひきこもりによって、己れの先験性に回帰してしまっているのだ。
 作品言語は過去を包括している現在の限界性によって、まず仮定される。その仮定は現在の埒外にあるゆえに、実に情況の洗浄作用の糸口となる。作品言語は、その仮定と類推としてしか、未だ存在してはいない。それゆえにこそ、常に、無いものの、不定形の、空漠たる、無表情の、もののあらわれである。また、何のあらわれもなかったごとくにあらわれる。岡庭昇のように、詩の現在という岐路を見定めようとするときに、その熱情あふれる意志にも拘わらずに引き戻りゆくというのも、未だ現代詩が己の腐乱のうちになお生きようと、おぞましい死に様をさらしつづけていることの、あらわれである。だが、もう少しだ。その腐乱活動が現在を完璧に消去するのは。作品言語は、もう既に翔び立ちつつあり、次の語は輩出しつつある。現在、詩人であるという俗物たちの情況さえも、ようやく死を開始しはじめる。現代詩は自ら終りを告知しようとしている。その岐れ路の一歩向こうに、受感できうる厖大な夜の迷路が、増殖しつつある。

〈了〉


(c)1974, Akira Kamita

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