『文連新聞』第3号昭和49年4月6日付(発行/慶應大学文連常任委員会 1974.4.6)
現代詩論
悪魔の受感
――作品言語の夜に向けて
「この解体を自分には関係ないことだとあざ笑える人たちは幸せだ。僕はその人たちとついに無縁だろう。もし僕が詩人なら君たちはもはや詩人ではない。もし君たちが詩人なら、僕はもはや詩人ではない。僕の存在が状況とふれあっているか、君たちの存在が、状況とふれあっているか、それはいずれ明らかになるだろう。」(『現代詩手帖』1968年4月号、中江俊夫「語は語、そのままで――『語彙集』」より)
異様なもの、妖しげな気配、おそらく耐え難い戦慄、その奇怪な動向が、亀裂を帯び破砕寸前の現在を足場にして翔び上がろうとしている。爛熟という死、腐敗という多くの微細にわたる罅を拡げながら、卵の殻には、不吉な鳥、異様な生の足跡が刻まれる。卵自体においてはその内部に死と腐蝕とを抱え込むことによって可能なのであり、その外側に与えられるのは、異様なものの現出へ向ける予告なのである。現在はあらゆる過去の吹き溜まりでしかなく、ついには現在を超え得る何ものもない。現在はただ己れを到達点という、それだけで過去でしかないものに委ねることにより、連続的に終了しきっているのだ。終了の絶えまない持続、否、それは考え違いでさえある。終了の亡霊であるというべきか。またぐつぐつと汚濁に充つる腐敗であるとでも述べるべきか。だが、一切はこの死の現在自体の暗示するところのもののうちに孕まれてはいる。現在という殻には、不吉な鳥の足跡が印される。
爛熟し、罅割れ状態の現在とは何にもましてこの異様なものへの予兆である。過去を包み込んだ現在の殻とは、過去の累積する死の排泄物でできあがったもののようである。それは、壁であるとか限界であるとかというよりも、ある関係の固定観念である。殻と卵の内容物との関係からいえば、殻の内部、楕円の球空間に己れの全体を決定されることのうちでだけ、内容物は殻に対してある関係を取り結ぶのであり、そこでは、殻を破って鳥になるということは死と同義の禁忌である。だから、のっぴきならぬ関係をもつ卵と殻に訪れるのは、タブーを犯すことによる破滅か、己れの死と腐敗を通じてもろともに解体し尽すかの、いずれかである。だが、そのいずれにおいても現在が、伝統的なるものという過去の殻で構成されている以上、内容物と殻に与えられた死の翳こそが暗示する、外側の、ある異様な、そら恐ろしいものが、最初にその表面に爪跡を残すのである。
現代詩における現在とは、作家と作品との関わりの構造として、既に死と腐臭にあふれた、あの破裂寸前の卵である。その内部には作品が交換価値であるとする、伝統の基本的パターンが引き継がれている。そうでなくても頓馬の多い詩人のうちでは、「表現の絶対性」をその根拠に、併せもってエセ「状況」論を謳歌しては、己れの無能さを公のものにしている。だいたいにして、これらの発想の中に通貫しているものこそ、一種物神的にまで狂信する、作品を中に措いた作家と読者の三位一体という絶対性である。そのため、「状況」論として「自立」すべき作品は、作家と読者の関係性という二元倫を可能にするための媒介機能でしかあり得ず、それを根拠づけるのが「表現の絶対性」という即物的解釈であるというわけだ。だが、これらの支配的な発想は、そもそも、作品言語を通用語に混入させるところに最初の錯誤がある(この事に関しては、明治大学新聞一三一〇〜一三一一号拙著「徴候としての現在」にて述べているので略す)。ここでは「表現」とは結果としての現実であり、現実によって切り取られることにより、あらわれる作品の切片に過ぎない、という仮定から述べることにする。作品は「語」によって己れの全体性へ向かう。だが、この「語」、作品言語とは規範的言語とも、あるいはそれと幻想的な関わりを結ぶ観念の表出とも異なるものである。この作品言語は、およそそれらとは水準の異なる、現実と観念との手の届かないところに自ら突き進むものである。観念と現実との相対的な関わりのうちに、作品言語をおしとどめるところにあるのは、作品言語を機能として作家に隷属させていくところのものである。故にこのようなものに対置させるための仮定を付加するならば、作品言語は「表現」としての「語」を仮りているに過ぎない、ということである。「表現」としての「語」とは何を示すのか。それは観念と現実との関わりの水準にある、いわば交換価値としての「語」の形態である。また、ここからいえることは、作品言語はまるで観念と現実との関わりであるような貌を仮りて、あらわれるということでもあろうか。
では、次に作品言語を仮定するとは如何いうことかを考えてみよう。まず、ある認識が必要である。それは、ひとつに現実と観念的な共同性の関わりのうちで最高の、整序された「語」は法文であり、ひとつにこの規範としての言語体系によく対峙し得るのは、思想としての個的な「表現」であり、この二点は、生活とか体験とかビジョンとかいった、まさしく思想のレベルの問題なのである。だが、これらは戦後の情況が辿りついた現在ではあるが、この現在をこそ、作品言語は己れの出発の儀に爪をかける、あの卵の殻程度のものとして扱うのである。何故ならば、この「表現」の「語」とは思想的言語のことをいっているのであり、それは逆に通用語の構造そのもののうちに機能としての己れを措くことにより、己れの最高のレベルに至り、それを発するもののうちに回帰していくという、媒介の定めにそうことしか能わないからである。そこではより根源的なものは「語」自体ではなく、「語」の裏に貼りついているとされる思想の営為なのでおる。さて、ここで次の二点についてアプローチしてみる必要がある。思想が観念と現実の関わりの全体へ向かうものであるとするならば、作品言語はどこへ向かうのか。作品言語は、この思想の表現のひとつの形態であり得るのか。この二つのことに関して、逆方向からさぐりを入れてみよう。それは、仮に思想を個と世界の実存の関わりのトータルであるとするとき、「表現」が要請・必然された場合、思想論文、生活・自己実存、その他で提出されずに「語」として提出されるということの矛盾は何故なのか。あるいは、にもかかわらず、何故「詩」として独立可能なのか。資質とか、好みの問題に帰着させるのは誤りである。というのは、思想的営為が己れの側から「表現」を必然化させ要請する根源的な場では、思想的言語、肉体、行為そのものによらない「表現」は逆に、必然・要請する、される、根源的な場を自ら欠落させていることの証しであり、すべてお茶を濁す程度の自堕落なのであるからだ。それでも、何故に「詩」なのか。では、「表現の絶対性」という地点に戻ってみよう。「絶対性」ということの裏には、実は眼前にインクのしみとして、物的にあらわれることへの敗北と、単純に限定へと向かう思考法がある。またこのことから、人間の、書いて、他の人間に関わりを持つということへのロマンチシスムとしての作家の絶対性が浮かびあがる。故に、「表現」のこちら側では作家の観念を対象化する手段として、「表現」の向こう側では作家の観念が流通する手段として、「語」が存在しているのである。このあたりで明白にさせねばならないのは、この程度の作家の心的世界ほどに愚鈍で低水準のものはないのであり、比すならば、日常的な生活者とか大衆とかの現実性の方が、豊かで緻密な内容をもって優れているのである。もっとも思想的言語で己れをも表現でき得ないエセ思想家の被っている詩人仮面など、とるに足りぬことなど放っておけ。
「詩」が、伝達とか交通において、彼らの望む「機能」としてはそれを裏切るごとく、誠に下劣で役立たずである以上、彼ら「表現の絶対性」を隠れ蓑にする連中にとっては、意味を認めようと信ずるしか手がないというのは、実にお気の毒さま、というところである。だが、意味も価値もないと考える上でも、なおかつ、何故「詩」であるのか。その前に、「詩」の自律性ということについて考えてみたい。「語」がインクのしみという上で現実性であるということは了解される。また、ある対象を指示するという現実性も認められる。だが、ここではその裏に現実への共同的な認識と「語」に対する共同的な認識が貼りついている。また、「表現」するという意志性が関わる場合には、観念的な水準がこれに加わる。このときには、インクのしみを媒介にした観念の交通形態であるから、今度は観念自体に還元されることによって、現実に対して観念が自律しようとする。ここまでは「表現の絶対性」の領界である。ここで、前に戻って「語」がインクのしみという形態をとらざるを得ないというところで、「絶対性」という規定を取り払ってみる。すると、「語」は「表現」という現実的帰結に過ぎない。つまり、現実性に関してはただそこにそれを借りて現われたに過ぎない。また、観念性に関しては、あちら側が「絶対性」のうえで現われたのてあるから、こちら側は「絶対性」を借りただけで、ついでにそれをも借りたに過ぎない。ということは、「語」の自律性とは、現実性と観念性に関わりをもつが、直接のそれではない。では何に対しての関わりを持つのであろうか。ここでは、それは「語」の彼方、つまり「作品」であると仮定しておこう。
さて、誕生とはおよそ現在に対する反現在である。それは、過去を包み込んだ現在を、それ自体、腐蝕の海に漂わせながら、まるで何のあらわれもなかった如くに葬り去ることによって可能である。それは、己れの際限なき全体性の闇へ、能う限り、くまなく、自らの戦慄を吐き出しながら、翔びたとうとする。「作品言語」は、まさしく詩と詩人の現在から登場する。しかし、それは詩と詩人の現在を埋葬することによって可能である。作品とは、その作品言語が己れの自律によって到るべき彼方である。未だ、作品の本姿は一瞥をも与えることはなく、語の過去が撒かれているに他ならない。その彼方は恐るべき無の淵でありながら、およそすべてのものそのものでもある。語はそれへ向けて疾駆し得る唯一の実体である。詩人とは、己れの現在を徴候としてそれに与えるエネルギーである。語と詩人との、この悪魔の受感こそが、彼にとっての可能な行為なのである。
「いってみればそういうことになるが、しかも、文学と、もくろみは、書くことに於いて、極点では、書くことそのもののなかで書くこと、エクリールのなかのエクリールとしかいいえないひとつの運動になる。
書くことそのもののなかで書くこと、このようないいかたで僕は自分の行為を説明するよりどうしようもない。そこで僕は出会いを待つのである。もう何に出会うか出会わぬかも忘れて。」(同、前掲出)
作品言語と作家との関わりの構造とは、いったい何なのか。詩についての支配的な考え方は以下のようなものである。詩とは作家の表現なのである、と。これは、新体詩以後、戦後詩を経、現在に至るまでおよそ変化してはいない。というのは、まず作家主体の内部的なものを、感情とかイデオロギー、思想、その他をそれぞれ取り換えたり、また「表現」のかたち、方法を換えたりという具合で、評価の側からいうと、最終的には「表現」された語が作家と受け手をどれだけリアリステイクに(感動)結びつけるか、という構造として。だから、伝統とは、正しくこの作家の自己への思い入れを作品に託すことを示すのである。故に、こうした作家への思い入れが現在のように個的な存在論、思想を裏の素材として重視することに還元され、それを通じることによって作家絶対主義へ転ずるのである。作家のそうしたものがどれほどの重要性があるのか、と問い直した方が早い位のものである。だが、どれほどのものであってもそれで思想として世界史に肉迫できない敗残者のものは、伝達しようとする自己そのものの底がつきてしまい、そのため次に必要とされるのは、伝達の方法と過程において質ではなく「感動」の量を大きくするという技術であり、これこそ「芸」の本質なのである。作品を衝き動かすものが、このような作家の他愛ない自己表明への欲心でしかないというのが実情のようである。
この数十年に及ぶ日本の詩の伝統性という円環は、だがそろそろ裁ち切られ、終了するであろう。引用した、中江俊夫も含め、語と詩人との受感によって衝き動かされて詩人たる作家が、わずかではあるが存在しつつあること、また「詩壇ジャーナリスム」においてさえもようやく技術に還元されている詩の現在への批判が出てきてはいるからである。勿論それが、後者、例えば岡庭昇のように正当なものではなくても、この技術の問題が日本の現代詩の伝統の中でどういう構造を持つかが問われれば、そのことによって、作品と作家の関わりの問題が明らかにされるからである。
作品言語は訴えたり、まして感動させたり、意味を与えたり、人間に価値あるものとして映ったりはしない。作品言語が次なる語をおびき出す、あるいは衝き動かす、その構造自体が多くのことを語るに過ぎない。作品は、誰に対しても語りはしないし、与えもしない、事実は、見えもしないのである。作品は、ただ己れの彼方へ、凄絶な狂乱のダイヴィングをするだけである。
〈了〉