クリックすると目次がポップします
戒厳令下の北京を訪ねて
5
この街を東西に走る路は南京路と淮海路であるが、市の中心には人民広場があり、さらに東に行くと黄埔江に辿り着く。
南京西路を歩いていると、舗道に掲示板が並び、人民日報などを始めとした全国紙、地方紙が貼られている。市民が集まっているところを覗くと、今回の虐殺に対して6月4日に、「学生運動の武力鎮圧は、全北京人民、香港、マカオ、台湾の同胞、そして全世界の中国人が反対している」という社長・李子誦の訴えを一面に掲載した香港の中国系新聞「文匯報」が貼られていた。
残念ながら中国語を理解できないので記事は読んでいないのだが、写真は例の列車焼き打ちで逮捕された労働者のものであった。おそらく、裁判の記事なのだと思う。
文匯報は中国に持ち込めないというような話を聞いていたので、意外という気がした。しかし、帰国してからの話によると、北京政府の圧力による人事の異動等があり、内容も右旋回したということで、このときはすでにそうしたことの後だったのかも知れない。しかし、北京ではついにこの新聞は見なかったのだが。
人々は、この記事をただただ見つめるばかりで、それも一様に長い間穴のあくほど見つめていた。しかし、議論する様子も、昂奮する様子もなく、ただ夕日の長い光を浴びながら立ち尽くしていた。
そんな様子をあちこちで見かけながら、その一方で、公安関係の白い上着に赤い腕章の男が人混みにまぎれてちらほら見えた。民間の「協力」組織もあるようで、おばさんがあまり気の乗らないふうで人混みの中を歩いている。交通警官が例のカーキ色というか、もっと緑っぽい制服でときどき立っていたりしていたが、自動小銃をもっているようなのは見かけなかった。
それにしても、人が多い。この街では公安機関や警官が動いても、また通報・密告などを喧伝し、強制しても、はたしてこのとんでもない数の人間を抑えきることができるのだろうか。私は、どうもそんなことなどできないのではないか、この街の人民の海は広く深い、そのような楽観主義が胸のうちに涌き上がるのを禁じえないのだった。
9時を過ぎると次第に暗くなり、初めての路を歩いているせいもあり、もともと街を徘徊するのが好きなこともあり、どんどん裏道に踏み込んで行き、自由市場の片づけられた屋台の跡、幾つも転がる馬桶、野菜屑、ぽつんと点った裸電球、暗い路地の陰でうとうとしている年寄り、疲れきって道端でのびている汚れきった男、糞尿の匂い、なんともすえた匂い、ドアの隙間から覗ける一間きりの部屋の薄汚いパイプベッド、丸いテーブル、得体の知れない臓物や肉類の切れ端、壊れかけた椅子。
割れたガラス窓の奥にある狭い部屋で、家族が小さなテーブルを囲んで食事をしている。八角茴香(アニス)の香り、大蒜や、その他の刺激的な香り、皿に盛られた包頭、上半身裸の男達、ラベルのない緑色の壜には生温かいビールが詰まっている。
裏道はだんだん狭くなり、突き当たってしまいそうだ。汚れた石の壁、細かな住処。いや、長屋だ。ところどころに水場があり、ここで水を汲み、洗濯をし、共同便所があり、また路地は次の路地につながる。いつまでたっても、どこにも出られない。
通りかかる外国人は、なんてこの国は貧乏で、不潔で、臭いのだという。しかし、そんなことはない。もちろん、とんでもない不平等はある。もちろん、とんでもない貧乏に打ちのめされてもいる。しかし、いかなる希望も、充実感も、熱さもないというのは外国人の傲慢な考え方だ。そんなことはないのだ。家族は、子供は、恋人達はこうした日々の暮らしのなかに生きているのだ。
そこにあるのは、思い出してもみたまえ。この国で外国人といわれる、自分達の今の場所からしかものの見えないこの私という日本人でさえ、三十数年前の幼い日の、どこかから解体された古い建材でできた長屋に住み、共同便所からも、狭い部屋からも、湿気た畳からも独特の匂いをさせて、路地を辿って行けばどんどん深みにはまっていく、そうしたあの懐かしい時代は、絶望でもなく、貧しさを貧しさと感じもせず、不潔どころか赤痢が時折発生しても清潔であり、今やどこにもなくなったあの匂いさえとても懐かしいもの。そして、あの幼年期は常にいくらでも夢を食べることのできる黄金時代である。このことは、いつだって、本人にしか分からないことなのだ、私はそう信じている。
私は確かに私の過去に帰ってきているのだ。
私たちの視線は、だからこの国の人たちと同じ高さから、同じ低さから発さなければならないのだ。自分達を高みにおいて、貧しいとか、遅れているとか、そのようなことを思うことはとても駄目なのだということを、旅行者であり、外国人であり、つまらない日本人である私は考えていた。
しかし、いや、だからこそ、人間の問題は国家とか人種を越えるという単純性が魂の問題となりうるのだ。どのようなところからでも、怒りと悲しみをぶちまけることができるのだ。
わたしは、食べることも飲むことも忘れて、夜の路地を徘徊していた。
それにしても、上海の夜はいっそう暗い。
光が、光が足りないのかもしれない。
(c)1989,
Akira Kamita