目次へ 紙田彰の世界へ 版元・直江屋


デリュージョン・ストリート 09(妄想ノート)

妄想ノート

〈人の海〉の中での真正の孤独/たしかに実在的現実が死んでいる空間に感じられる。だが、現実とのバランスの力が圧倒している間は大丈夫/二十代初めの神秘体験は、望んでそのような、死んでいる、つまり接触不可能の世界を招来せしめようとして、ついにはそれがそれ自体で実在的現実を圧倒して存在していたような形跡もある。〈妄想の発現〉/妄想は共同社会に認知されると妄想ではなくなる/妄想は構築力を持つ。表現ではない、つまり交通形態を持たない。〈連想法による言語の自働性〉コンピューターを使用した無意味連想法の場合、あらかじめ意味伝達機能の定められているコンピューター言語にランダム関数という反意味的有意味性が装置されるだけで、意味伝達の遮断という意味性を目的として機能し、アウトプットされたものは構築力を持たない、意味性の死骸としてのパーツの羅列となるにすぎない。これに反して作品言語は初めから通用性を持つ必要はないから、連想法という初歩的手段でも、生きた無意味性とでもいうべきある程度の構築力のベクトルを示す。そしてそれは一箇の人間存在が世界を相手に妄想して取り込んでいる内世界と妄想的自己との関係から構築されるものであって、現実つまり外的な世界という先験性、肉体的な自然という絶対性とは無関係である。あらゆる飛躍が可能なのは、この妄想建築の場面である。だが、これが共同社会で認められれば、妄想はたちどころに崩壊し色褪せてしまう。つまり、現実的な意味が生じたときに、飛躍は飛躍でなくなり、ただのあたりまえの停滞になる/〈時間の超越〉時間が光の直進性によってその絶対性を保証されるならば、光は別の光の集合による偏倚を受けて、終局的にはつねに渦状の滞りでしかない。またその渦を形成する光を直線的に捉え、その内部でしか方向感覚を持たぬならば、光を辿るという無限の堂々めぐりをすることになる。空間が時間の対語ではないという場合においてのみ空間という語を用いるならば全体性は時間を超越できるだろう。つまり光を軸とする幾何学、物理学とは無縁に、光の迂遠性を星屑のありように置き換えられる〈眼〉を持つことの可能性。宇宙膨張説は光の迂遠性を光の内側から見ることによる渦状の限定性ということ。光を横切ることが空間の全体把握になるということ。そうすると、たしかに宇宙は無辺である。その理由として、無限にさせるべき光の内側の論理をも抱え込んでいるとの謂。捩れが及んでいるのは全体ではなく、光に照射された時間によって決定される宇宙だけであり、〈宇宙は空間的に無辺であるとしか妄想できない〉。ここで我々は、光がもっとも遅滞していて触れることさえできる〈物質〉が宇宙のありようと無限の近似値をもち、普遍というものが超越的な思考のうちにしかないという背反を、それぞれ同時に充たすことができる。〈物質は幻惑〉〈デペイズマン〉。妄想は茫漠としながら拡散し、三角測量法。文学とはこのもっとも自由な妄想の反現実。物質と世界との一致/〈光を横切ること〉横切るということは、光の方向に遡るというただの現実に向かうことではない。また光の方向、つまり影という己れの暗い夜を一瞥することでもない。横切るということは、汎く存在する妄想の世界を実現することである。世界とは普遍的に無数の種類の現実であり、綿密な構成によって細部まで構築されているわけだが、我々の抽出せるのはこれまた部分でありながら、この部分の獲得が普遍的に無限の数を持つ世界のありようを物語っている/書き手の安易な移動。たとえば書いている言葉に乗り移ること。また使用している器物(思惟、観念、イメージ……)にのりうつること。向こうの側から現実の自分が解剖され、夢見られているという方法。単純な推移。連想法の物語主体へのアナロジー/〈ヒステリー〉(I)ヒステリーに対する防衛措置として妄想的場面への拒否反応。たとえば夢および神秘体験に対する拒絶、放擲性。(II)抑制的人間の妄想場面への参入。(I)における地図恐怖症、人体解剖図、内臓・精巣・卵巣拒絶、および宇宙論恐怖。耐性、人間存在への不可避的な信頼(つまりアイデンティティのごとき)への逃避。(II)における、定められた危機、能力を越えた妄想場面における自己崩壊。あるいはそれを射程内に置いた冒険主義、自己に対するサディスム、つまりマゾヒスム/〈妄想場面におけるバランス〉存在のヒステリー。ヒステリーの軸を時間的現在に置くか、未来に置くか(未来とは現実ではないということで過去に含まれる)など、軸の設定に左右される。現存に置く場合は防衛的で安定的であり、それ以外に置くときは攻撃的で構築力を持つが、特に過去に置くときは病的傾向が拡大される。ただ体験していない過去はなんら未来と変わることはない。また現在が過去の連続性であると決めつけると、妄想は創造的な場面から離れて病的様相を深める。病的妄想から逃れて妄想を可能にするには、すべての断面をある特定性へと収斂させないことである。頭脳およびその心理的、精神的受皿は無限定の妄想作用によって容量と容器の変化を促される。〈妄想訓練〉〈妄想馴致〉。バランスをとるためには、ヒステリーの軸を適宜移動させることによって暴発を避ける必要がある/〈時間の停止〉〈歴史時間の停滞〉歴史が現実的時間とは無関係、あるいは絶対的な関係をもたないということ。一方で現代資本主義が歴史時間の停滞によって腐敗しているということ、資本主義の歴史的展開を瓦解させつつあるということ。同様に社会主義諸体制も膠着し、時間のダイナミズムを失い朽廃しつつある。だがこれらは世界の老化というよりも、現実という泡沫現象に過ぎない。政治的には、現実的時間を越える、あるいはそれを蔽う歴史的時間が存在しない、つまりあらゆる必然性が崩壊することによって現実認識が優先されて、左右の意義が急速に失われ、機構の自働化現象が起こり、密度の中で腐敗し涸化してゆく。社会的には、循環運動が求心的に働き、あるサイクルの絶対性を越えることなく、あらゆる社会的冒険も泡沫現象にすぎず、バリエーションだけが問われることになる/じつは、あのときから夢をながながと見ているようで、生きている実感がない。けれどもそうこうしているうちに肉体的な時間だけが確実に過ぎてゆく。家庭を持ち、子を生み、育て、老化している。それが現実だといわれればそうかもしれぬが、納得のいくものではない。生きている時間とは無縁の生物学的な個体の推移にすぎぬはずだ。では生きている時間、生きている世界はどこにあるのか。内的な世界、つまり無数の妄想断片をつなぎ合わせ、構築していく全体化の中にしかないのではないか。停滞した現実世界と比して、それは同じ質とそれ以上の量と永遠を持つに違いないのだから。精神病者は単一の妄想断片を持つといわれるが、正常者(?)は複数の妄想断片を同時に持つことができる。少なくとも現実と妄想断片aという二つの世界を同時に所有できる。そしてさらに無限の数の妄想断片を持つ可能性もある。個的には、それらをパラレルに所有して、それらの構築物を精神とすることもできる。これはたとえば、現実という絶対性が実は相対性として、つまり数十億の異なる現実が同時に存在している〈地球の夢〉と同じスタイルを持っている。だから夢あるいは妄想は現実にもう一つの現実であり、より多くの現実である。〈妄想エネルギー〉

(初出 詩誌『緑字生ズ』第3号、1984.6刊)




前頁

次頁

閉じる


目次へ 紙田彰の世界へ 版元・直江屋