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デリュージョン・ストリート 10(妄想ノート)

妄想分析

 あれから数年後のある日の午前三時、寝床の中で夢うつつにして謎の天人五衰を妄想分析していた。/聡子は権力構造そのものであり、透と狂女は肉体と精神、美と醜との両義的な一致、あくまでも透は転生の真物。これら六十年間の時の捷径が本多の夢想であること。肉体の美と精神の美とをともにもつのか、肉体の醜と精神の醜をともにもつのか、いずれともつかぬ不可思議の胎児、生きて誕生するのか死児となるのかのも不分明のまま、本多の夢想が予望として透と狂女の間に生んだ唯一の現実がこの書に存在していないがゆえに、確乎たる存在として、本多が、いや三島由紀夫がそれに賭けているもの。/豊饒の海が本多の邯鄲夢であり、その本多を夢見るのが三島であるならば、肉の衣のその中に、人に知られることのないMarxismへの暗い、熱烈な情熱が。/pathosの文学。外に現われることを極力押し止める密教的な匂い。自決さえ肉の衣であってみれば、自己顕示などの下司の勘ぐりどこ吹く風、disguiseされた反面教師としての暗鬱たる情熱に支えられていたことは……。/それこそ永生する人民、愚昧で醜悪である人民と、それゆえの彼らの革命的な情熱の至純さに、まるで対極的な存在、つまり透を注入し、革命という畸型児を現出せしめようとしたのではないか。自らの死が何ものをも動かさざることを、人民は愚かで醜く、世界は聡子のように傷つけられることもなく、すべてが夢想の譫言として片づけられることを了解しつつも、肉体に精神を注ぎ込む、あるいは精神に肉体の鎧を着さしめるという、三島由紀夫の最後の夢想を自死に託したのではないか。/あの夢想する鼠の話という陳腐さこそ、三島の、左翼に対する唯一の願い。だが、左翼の現実こそ、永生の衣をかぶった不純さ、俗物性。三島は夢想の革命を、時間という腐った現実に転換したのであるか。彼は彼の偽装を賭して人民の美しき心を問うたのであるか。/文学的な質の高さからは春の海がもっとも優れ、作品の力という意味では天人五衰が傑出している。そして三島由紀夫の偽装の極みが奔馬の勲である。だから、三島の本質的な偽装としての勲は革命的であり、そこに肉体に対する決意が、自決に至る人生が決定づけられたのではないか。暁の寺は韜晦であって、この部分には何の愛着も抱いていないようにもみえる。/三島由紀夫の人民への愛、絶大なる共感は、洩れそうになればなるほどに陳腐化され、諧謔化され、意識的に隠蔽される。安田砦での嬉々とした様子を想い起こせばよい。左翼に抱いていたと流布されている三島の危機感とは、左翼の自惚れとも、被害妄想云々の鈍感さとも隔絶した、彼の左翼に対する愛ではなかったか。/天人五衰の難解さは、三島由紀夫の戦略的な動揺によるのではないか。結局、三島は情熱に戦略を与えるという、夢想の交接に落ち着いたのかも知れぬ。/暁の寺が韜晦だというのは、大乗仏教の研究という裏返しの姿勢、つまり神道でもなく、武士道でもない、完璧に三島とは無関係なものを、独力で思想の形にまで押し上げるという、三島の実質の力を証明したということ。その力量からするMarxisimへの理解、本質的な到達。それゆえに仏教という衣によって完全に蔽い隠すということ。/三島由紀夫は自分に役割を与えた。誰に気づかれることもなく、まるで反対極のように身をおいて、その実質を自ずと現われる張力によって現実という場面に突出させようとしたのではないか。三島由紀夫は身をもって、悪の権化になって、本質的な状況を生み出そうとしたのではないか。/ここで、ある俗説を思い出す。Karl Marxはイギリスで炭鉱労働者を目の当たりにし、彼らがあまりに動物的な悲惨さのうちにあり、その存在の気味悪さに生理的に脅かされ、彼らをまるで自分とは違う生き物、唾棄すべきものと感じ、嫌悪感という貴族的な立場から、つまり獣以下の汚らしい人種を抹殺すべく資本論を書き上げたというのだ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)




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