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デリュージョン・ストリート 11

曰く

 情況とか状況論ということがいわれていたのはついこの間だったような気がするが、いつのまにかそのようなことどもは影を潜め、近頃ではいろいろのことが相対化されているようで、それに伴って現実というものが宙に浮き、その意味あいも下落しているらしい。いっそこのような現実を指して状況的現実と呼ぶのも一興かもしれぬ。なぜなら、この現実とは、すぐ影を潜めるような状況性であるらしいからだ。
 その状況的現実の中で、情報という問題は最もホットなものとされる。そういえば、この十数年来のソ連情報に関する工作の成功は瞠目すべきものである。またそのような伏線に沿って、大韓航空機事件、アキノ暗殺、ラングーン事件などを眺めると、このアジアでの生々しい動きがはたしてロスアンゼルス・オリンピックに繋がるものかどうかは知らねど、なにやら筋の通ったシナリオが浮かぶのは当方のうがちすぎか。
 ところでそのオリンピック、高邁なスポーツ精神、世界平和などというのは赤児の寝言にしても、現代世界のチャンプであるアメリカがその総力を集めたにしてはなんともチャチで子供騙しの感は否めない。成金趣味は致しかたないが、飛行船、人間ジェット、聖火ランナーの茶番劇、点火の際のくだらぬ仕掛、大統領の大根役者ぶり……、開会式を見てさえ、どこに今世紀最大の国家の力と知性があるというのか。このところ過激になってきている謀略の仕掛人たちの粗雑なプランと同じで、底の割れるような浅薄さである。
 その様子が衛星中継で日本に同時に伝えられるのだが、TVの箱の中だけの熱狂というわけで妙に白々しい。TVから伝わるものは感動やら昂奮を強制するのだが、そんな手に簡単に乗るものではない。近頃流行(はや) っている演出技法に、この強制、つまり無理矢理にブームを拵えるというものがあり、これが成功しているといってはまた強制する。もちろん流行などというものばかりでなく、政策的見地から意図的に優先させられる情報というのもあるのだが、TVの箱の中の存在はそのような情報と交接しているがゆえに、いつのまにか世界の中心が箱の中にあると本気で錯覚しているらしいのも愛嬌というものだ。
 もともと文化というものが現象といわれる形で切り取られるとき、そのような性質を発揮するようだが、このところの文化の状況的現実でさえ情報の力というものに支えられているように思われる。いわゆるマスメディアである。
 一方の極には発行部数数百万部の全国紙を頂点とする活字メディアがある。一新聞で数百万部とは大きな威力を持つかに見えるが、読者対象人口を仮に五千万とすると、数百万部とは全体の十分の一、つまり十人のうちの一人に対する一方的な情報伝達で、その情報が納得して受け容れられる確率などはお話にならぬくらい低いものであり、新聞という存在が思っているほどの力など、言うほどないと思わねばならない。文化のリーダーシップなどいうは恥ずかしい話である。そればかりか、新聞など目の前を通過するインクのしみにすぎない。ましてそれ以下の出版文化、とくに現代的(つまり、より区切られた時間内の、より状況的な現実という時間内に適合した)とされている状況的文化などは蚊の鳴く声にもなりはしない。
 また、もう一方にはエンタテインメントを軸にしたTVなどの電波メディアがある。エンタテインメントとはただの商売である。文化の形は商売になると見定めた商売という存在の中の、囚われた文化らしき存在が、状況的現実を作っていると思いこんでいるようだが、これも根も葉もない不毛の現象である。TVなど、壁の片隅のただのしみである。スイッチを切れば消えてなくなるしみに何の力があるというのか。
 かてて加えて、近年開発急のニューメディアは、たしかに現在のエンタテインメント中心の状況的文化のありようを根本から変えてしまうのかもしれぬ。だが、ハード面の研究に比して、ニューメディアによる情報自体を使用者がどう選択し、どう吟味し、いかに活用するかというソフト面が欠落していることも事実である。そしてそれもまた状況的現実というもののお粗末さの表れでもある。けだし、そのようなことは瑣末なことだ。
 つまり、情報の量が厖大になり多様化しているということ自体すら、ただの状況的現実、錯覚された現実にすぎぬからである。それゆえ、それを吟味選択し、自らの味方に仕立て上げ、有効に活用しようなどは本末転倒なのである。ハードウェアが先行しているということは、いかな情報といえども管理と制御の洗礼を受けねばならぬということである。そしてこの情報交通の基本構造がハードウェアの設計思想として決定づけられているのだから、裸の情報などその性格からおよそありえぬわけだ。
 だが、たとえばINSなどの蔭に郵政官僚の情報掌握の魂胆が見え透き、さらにその奥に階級的意図や帝国主義の意志の貫徹などを指摘したところであまりに当然すぎて面白くもない。ただ、情報という現代社会(状況的現実)の最尖端の問題と言われるものにしても、その裏にあるものが露骨にすぎ、露骨であるがゆえに逆に現代社会というものの程度の低さを知らしめることになる。
 ここで文化ということに話を戻すと、たとえホームオートメーションが完成し、ニューメディアによって包囲され、新たな文化的関係を強制されようとも、すでに人間は存在するものをただ存在しているとは見ないのであるから、また情報にどのような意図や操作性が装置されていようとも、肉に触れうる直接性以外はじかに、あるいはその意図どおり正しく把握するつもりなどないのであるから、ただ単に一つの妄想の中で消化するだけのことである。人間は人間である、つまり人間は肉体でしかないわけであり、その意味では人間の生活に大きな変動を期待するなどは愚の骨頂である。文化とはもっと大きく深いうねりから突出するもので、目先のつまらぬ選択やバリエーションの自働化から生み出される泡沫現象とは関係がない。そして、そのようなことをわきまえないで流布されるくだらぬ心理実験など人間の尻尾だ。
 メディアの器は自らを特殊世界化するが、傍目にはその周りの空間につきものの微小な澱みでしかない。いかに高度な情報性を有そうが、その存在が喚きたてようが、メディアはただの存在のしみである。われわれは退屈しのぎに壁面のしみから様々の事柄を妄想するが、メディアというしみにしたところで、そのような何でもない作業のうちに他のものと区別もなく呑み込まれてしまうのである。
 それゆえ我々のなしうることといえば、状況的現実がチャンネルを切り換えるようにくるくる変動しようと、惑わされることも振り回されることもなく、飽きたらいつでもスイッチをOFFにして、ただただ自らの裸の思考のうちに、妄想すべき世界の根をしっかりつかまえて作業するということだけである。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)




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