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デリュージョン・ストリート 16


~谷俊美第六写真集『窗櫺譜』より

そう れい   視線の造型――物質創造のドラマ


 ダイヤモンドの内部に囚われた処女を描いたのは、周知の如く、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグである。この掌品“Le Diamant"を読むたぴに、時間と手間とをたっぷりとかけた豪華な料理を食するような喜びに浸ることになるのだが、それにもまして緻密に構成された同心円的構造という容器の完璧さに舌を捲かざるを得ない。女主人公サラがダイヤモンドという物質の至高性に至るまでの階程、つまり、螺旋階段、円形の踊り場、金庫室、プリズム型倉庫、抽斗、皮袋、空色の包装紙、拡大鏡へと収斂されてゆく内部への旅が、聖堂をはじめとする聖遺物器やスウェーデンボルグの人体宇宙説などに匹敵する入れ子構造の典型と見ることができるからである。その極限ともいうべき結晶体にサラが封ぜられようとする時、マンディアルグは「どちらが品物で、どちらが鑑定人あるいは保証人であるか」と眩惑の思いを曳している。「窗櫺譜」について感じたのも、このことである。
 ここには窓があまりにも多い。窓に関わりのない作品は一葉とてないと断じても差支えあるまい。もっともカメラ自体にレンズとかファインダーという窓が内蔵されている以上、驚くほどのことではないのかも知れない。人間の眼球からして硝子体や水晶体という光の窓がある。視神経を脳髄の窓、脳髄を精神の窓と考えることもできる。このように肉体の内部、肉体とカメラ、さらに美術館の窓……という窓の複雑な連なりが無限の入れ子構造として構成される時、どのような事件が生起するのだろうか。マンディアルグは「視線が壁面を貫くためには内側にいなければならない」という具合にダイヤモンドの光学現象を説明している。壁とは言うまでもなく作品行為である。では、作家は己れの視線をカメラの中に、連なる窓のそれぞれに封じなければならないのだろうか。
 この作品集のタイトルを直截に表現するような映画博物館の素敵な楕円の櫺子窓から覗く深い樹木、オーストリアギャラリーの薄紗のカーテンを透して見える公園、ウフィツー美術館の窓枠を強調した外形などはそのような内部から見た外部であり、窓が光を味方にしているために、外部から内部を窺うことができない。ここでは視線の逆行現象は起こらず、あくまでも水平に外に広がる同心円の波紋として存在している。では、アルベルティーナの建物内部の屈折した階段、向こうの窓、一階の扉とコンクリートの床などを収めた作品はどうなのだろう。まるで自分の脊髄を覗いたかのように、あるいは神経線維を映し出しているかのように思えないだろうか。ヴェネチア歴史美術館の作品では、扉近くの見事なレリーフを中心にして聖者の左手と像の全体の影が、脳髄の襞に現れる光と翳りとの危うい、暗示的な関係として見てとることができる。これらは、視線が視線を逆行し、肉体の内部に向かうために起きる、いわば入れ子構造の垂直の波動と考えられないだろうか。
 そのような意味で、バイエルン博物館のアダムとイヴの彫刻を素材にした作品は周到である。ここではショーケースに映る作家の背後の窓を通した外景と、その窓に映る彫刻を、ショーケースの前と後ろの硝子に映すという演出者の精密な計算によって、まるで合せ鏡から語りかけてくる悪魔の誘惑の声のように、異様な世界を垣間見させている。このような入れ子構造の波動し、躍動し、それゆえに一層複雑な運動は、まさしく物質の創造の舞台であり、思想と技術との一致という古代からの夢を造型し、濃密な時間を充電しようという、凄じい意志の形である。物質はこのように時間を注がれ、ダイヤモンドが内部から発光するような至福の状態に至り、燦然として生命を帯び、自ら思考し、自ら舞台を疾り抜ける。その意味で、あのマンディアルグの眩惑を抱きながら、この作品集では蠱惑的なスペクタクルが展開されているのだ。ヨーロッパの老衰寸前の文化を単なる添景にし、~谷俊美自身をも演出家として遠景に留めさせることによって辛じて成り立つ、カメラの中に渾然と溶け入り、その頭脳と化した視線が唯一の主人公となった物質創造の巨大なドラマが、私たちの作品を見るという構造をも攪乱しようとしているのである。

(~谷俊美第六写真集『窗櫺譜』跋文/1979年1月刊)




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