【登録 2011/12/23】  
紙田彰[ 散文 ]


〈自由とは何か〉
自由とは何か[001]

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 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あらゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてである。

(話をどこから始めるか?)
 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるかもしれず、また私の隣のあなたであるかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるかもしれない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。だが、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、いつやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。

 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかは永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。

 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなのか。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつになることを拒むもの。

 私が考えているのは、あなたがこの議論の内部にあるのではなく、表層を部分に持つ、見えないもののその表層の部分なのではないかということだ。だから、私が問いかけるあなたとは、私の影であるというべきではなく、独立した表層の部分というべきである。
 あなたはどのような場合でも、あなた自身である。そうだ。私が問いかけようとしたのは、そのことなのだ。「私はあなたであるか?」「あなたは私であるか?」あなたはすべての場合において、あなた自身の何ものでもないのだから、私はあなたではないし、あなたは私ではない。
 このことは次のような問いかけでも同じである。「私にはあなたが見えるのか?」「あなたには私が見えるのか?」私はあらゆる場合においてあなたを見ることはできないし、あなたは私を見ることはできない。

 では、私はあなたに問いかけることは可能なのだろうか。また、私はあなたに問いかけずに私としてありつづけることが可能なのだろうか。もっとはっきり述べるなら、私が私に問いかけるということはありえないし、それは絶対不能なのだから、あなたに問いかけることが不可能なら私は絶対の沈黙を余儀なくされる、私のあらゆる問いかけが存在しなくなる。

 あなたは私にこう答える。「そのように考えることが、すでにあなたが『あなた』と呼ぶ私の一方の考えであり、その私の一方の考えが、あなたの考える一部でもあるはずだ」
「けれども」と、あなたは付け加える。「あなたの私への問いかけは、私になされたものなのか、あるいはあなたが発しえたものなのかは定かでなくなってしまっている。そもそも、そのような問いかけが行われたのかどうかさえ明確ではなくなってしまっている」

 たしかに、もうすでに私の中では、そのような問いかけは跡形もなく消失してしまっていた。そして、「あなた」という言葉の証拠すら残されず、私は私の表層を見つめていた。

全面加筆訂正(2011.12.23)


[作成時期]  2011/12/23

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(C) Akira Kamita