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毀れゆくものの形

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   第 一 章

 二重窓になっていたのだが、それでも外側のガラス戸には結露が凍みつき、奇妙な模様が織られていた。その模様を見るたび、少年は、外気の折々の温度の違いによって、模様を作る葉の形がさまざまに変化するのではないかと思った。アラベスクを紡ぎ出す葉肉の厚さが異なるばかりでなく、気温の質の違いが広葉樹の葉と針葉樹の葉との相違を生じさせるのではないかとも考えていた。けれども、大人の前で「寒さが酷いと、松の葉のように尖るんだね」と言ったときに妙な顔をされたことを思い出し、嫌な気がした。
 少年は建て付けの悪い内側のガラス戸を音たてて引き開けてから、その棘々しい葉叢に指を押しあててみた。ひんやりとした心地よい感触が訪れたが、それも束の間、白い指にきりきりと劈くような痛みが貫いてきた。その痛みが痺れとなり針のように硬く尖ってくると、ふいに指とガラスとの間で硬さが溶け、痛みを柔かく包み込むように、濡れたガラスの表面が指先にじかに感じられた。そして、冷気からもたらされる痛みは呆気なく遠のいてしまった。
 少年は窓ガラスに貼りついている指に力を罩め、霜でできた膜に円を描こうとした。その膜が指の動きに圧されて水になり、徐々に氷の模様を侵してゆくのが、指の先でよく分かった。けれどその円の大きさも、直径で五センチほどになると、広がりをとどめてしまった。
 窓の外ではしきりに粉雪が降っていた。このような夜は寒さがことのほか厳しく、冷気が人々の足下から重い衝撃を伴って心臓に辿り着くと言われている。風に吹かれて跡切れることのない雪は、少年のいる部屋の明かりを曖昧な輪郭で受けとめて、ちょうどその部分が闇から抉られ、白い紡錘形が宙吊りにされているように見えた。吹き下ろす風のためにしばしば渦を巻きながら、光の投影された雪の空間は、別世界への入口を思わせるようなあやふやな輝きを帯びていた。
 少年は自分で窓に穿った小さな穴からその光景を見つめていた。彼は、片目をその穴にあてがい、望遠鏡を覗く恰好で雪の吹き乱れるさまを眺めているのではなかった。氷の浮彫細工(レリーフ) にできた滴のような穴から身を離し、その位置から両目の焦点を結んでいた。
 腺病質で、普段から青白い顔をしている少年の頬に、珍しく血の色が浮かび始めていた。青みのかかった眸が次第に細められ、瞼の奥の白い光が強まっていくように思われた。ガラスの窓に開いた小さな穴の向こうに、何か気をとられるようなものを発見でもしたのだろうか。彫りの深い少年の容貌がわずかに歪み、この年頃の子供に似つかわしくもない笑みが、その歪みの中からこぼれるように見えた。細い唇の間から赤い舌が覗いた。頬の色がいっそう紅潮して見えた。握りしめた拳の細い指がふるえるように開かれ、爪の先から反り返った。細められていた目が大きく瞠かれ、眼球が飛び出さんばかりに膨れ上がり、白目の部分が真赤に充血していた。得体の知れない呻きが、そのとき少年の喉許を奔ったようであった。
 立ち竦む少年は、隙間なく降り続く厚い雪の壁の、その向こうに広がる漆黒の闇の底から、禁断の赤い火がゆらゆら立ち昇るのを見ていた。雪の彼方に埋もれている一点の炎、夜の底で翳りを帯びて燃え盛ろうとする血の色をした火焔(ほむら) を、うっとりと見つめていたのだ。

 大晦日の激しい雪降りの晩に、鶉町を大火が見舞った。選炭場の電気系統の事故が原因でガス爆発が起こり、その火が積み出しを待つ貯蔵炭の小山を次々と襲い、一夜にして一帯の炭鉱関係の工場群が灰燼に帰したのであった。燃え上がった炎は吹雪の中を渦を巻いて中空に立ち昇り、雪を呑み込み、町の空全体を赤々と染め上げた。降りやまぬ雪が、横殴りに吹きすさぶ風が、その勢いになお力を与えているようにも思われた。濛々たる烟はその色を闇に削がれがちだったが、それでも中天の高みに至ると、厚い雲を摩するように猛々しく伸び上がり、夜より暗い色になって空を蔽った。すさまじい炎と舞い狂う火の粉に照らし出された雪と冬空は毒々しいまでに紅蓮に染まり、その中をおびただしいサイレンの音が駈け抜けていった。
 数多くの怪我人が出たため、炭砿病院には収容しきれず、鶉町の市街地にある幾つかの個人病院にも怪我人が運び込まれた。それぞれの病院には患者の家族や同僚も詰めかけたが、除夜の鐘の鳴り終わる頃には、ほとんどの人が病院を引き揚げていった。だが、家路を急ぐ人々の顔には依然として北の空を染める炎の色が蔽いかぶさり、どの表情にも始まったばかりの新しい未来への不安を表わす陰翳が映し出されていた。
 矢継医院でも、ようやく表玄関に鍵が掛けられた。油烟や石炭の粉に汚れた雪が、押しかけた人々の着衣や靴から溶け出し、泥濘(ぬかるみ) のようになっていた廊下も、もうすっかり拭き清められていた。看護婦が二人居残ることになり、二階の詰所で仮眠をとっている。また、入院患者のために設けられた娯楽室では、安否の気遣われる重傷者の家族が毛布にくるまって蹲っていた。
 先ほどまで騒然としていた一階は、人の気配も失せて、静まり返っている。廊下の奥にある手術室の術中を示す赤ランプは消え、ただ一つ、裏口にある非常口を表わす緑の表示燈だけがぼんやり点っていた。しかし、手術室の両開きの重いドアは開け放たれたままだった。死者を閉じ込めてしまわぬようにとの配慮でもなされていたのだろうか。手術室の明り採りの高窓から、建物の外にある水銀燈の光が、降り続く雪の乱反射がもたらす妖しい効果によって、いっそう青みを帯びて入り込んでいた。
 手術台の上で横たわる死体が、その光の中にあった。腹部を白い布で蔽われただけの骸は、凍りつくような寒さの中で丸裸だった。アルコールで全身を拭われ、火傷による激しい爛れも、熱を失ったせいか肌に吸い込まれ、動かぬ体は滑らかな鉱物でできているように見えた。数十年、筋肉労働だけに打ち込んでいたのだろう、老人の年には不釣合な逞しい裸体だった。いま、老人の死んだ肉体は、瞼を閉じられて、蒼白な光と静謐さに支配された闇の中にぽっかりと浮かんでいる。そしていつのまにか、手術室の両開きにされたドアの傍に、青白い顔をした少年が立っていた。
 矢継早彦――、矢継医院の跡取り息子である。彼は、病院の二階にある勉強部屋から、院長宅の側の階段を廻って、誰一人としていないこの一階へ降りて来ていた。そして、ここで、生まれて初めて死体を見た。
 その死体は白蝋のような青白い艶を帯びて横たわっていた。手術室の中は外燈の光がわずかに注ぐだけの暗闇だった。そこに、まるで造りもののような、感傷など寄せつけぬ明瞭な死の形があった。綺麗だな、と思ってから、ふとあたりを見廻した。けれども、ここにいるのは確かに早彦だけだった。
 早彦は足音をたてずに死体のそばに進み寄り、胴体を蔽っていた布を恐る恐るつまんだ。それは、死の秘密を嗅ぎとろうとしてのことなのか、あるいは得体のしれないものに唆されてでもいるためなのか、早彦自身にも判断がつかなかった。
 火傷の痕がへこんだといっても、近くで見ると酷く醜悪で陰惨なものだった。そればかりか、蛋白質の焼ける異様な臭いさえ残されていた。腹部の方は大した傷も見当たらず滑らかだったが、右の脇腹と太股の肉が露出していた。奇妙なことに、胡麻塩の陰毛の中から、鬱血して膨らんだままの性器が垂れ下がっていた。白髪混じりの頭部の毛の半分は脱け落ち、地肌が焼け爛れ、顔の皮膚も引き攣れていた。それでも、瞑目した老人の表情は穏やかなものに見えた。
 早彦は手を伸ばして、老人の閉じられた瞼に触れてみた。それは酷寒の冬そのものを一点に集めたかのような、驚くべき冷たさだった。あわてて手を離すと、死体の瞼がずり上がった。瞳孔を開いたまま、死体の眼球が早彦を睨み据えた。
 そのとき、骨の鳴る音がした。鈍いけれどもよく響く音だった。そして同時に、死体の腕がバネ仕掛のように折れ曲がった。
 早彦は背筋を氷の牙によって噛みつかれたような悪寒を感じ、思わず後退った。そのまま手術室を飛び出すと、大きな足音をたてさせながら真暗な廊下を駈けていった。
 
 手術室のドアの蔭に、矢継院長が立っていた。息子の走り去ったのを確かめると、手術室の中に入り、死後硬直の始まった老人の腕を、ぱきんぱきんという音をさせながら凄じい力で折り曲げ、胸元で合掌させるのだった。
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