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i - 2 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月

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セント・ピーターに在留を許されなかった博士は 目玉を狙う肉屋から保護してやったカプリの幾万羽の小鳥たちによって天国に匿されている動物どもの楽園に招かれる
この翼のある優しい生き物は篭を開けると空へ向かって翔び立とうとして いつもその鋭い箭を化粧台や窓枠に嵌められた凝固した泉にへし折られてしまうのだが コレラの流行したナポリで修道尼にキッスした医学博士ならばこの忌しいプリズムを小鬼に命じて取り払ってしまうだろう
エルドレは自分自身の影を凝視ている
その影は だが別の生き物のようにエルドレとは異なった険しいまなざしで彼を射竦める
おおこの世のものではないエルドレは影などではない
まぎれもなく愛しいエルドレ
塞き止められていた欲望が肉体を再生し 二人のエルドレの唇を重ね合わせようとしている
何という冷たい感触をもつ優しい接吻だろう
おお彼らは水晶のうちに惹き寄せられ吸い込まれてゆき この鏡の内部に封じられる
宝石商の裸体の娘が残した金剛石の赤い痕よ
彼らは交わる あのテラコッタの性器のように
だが流され充溢するのは聖地のコアの石炭袋の暗黒のおびただしい液である
無患子(むくろじ)の硬い種子に封ぜられて船乗りどもの皺だらけの海図が展げられる
半透明のペルガメントの表面には粘菌類の長い旅と永久運動の鞦韆が揺れ動く
庭園の水晶時計が美に関するアリストテレスとの夢問答を噴射する
時狩りが鐘を鳴らし断食の一日を告げる
(がん)の上に並べられている多彩色の壁画は燧象(すいぞう)の法のよい標的である
二人のエルドレが重なり合った轆轤の中では十三の約数を再び総合して第四の完全数を作ろうとしている
船に設けられた仮面劇場では巨大な張型を振って王国の秘話が再現されている
粗末な壁に括られた棚に差しかかる茶褐色の日光
あの貪欲な繁殖力をもつ小動物に助命された円形の大広間
風琴の物悲しい細工で世紀の恨みを晴らした老女
おお血の儀式は亡霊どもを呼び寄せる
吊り庭は石炭袋に吸い取られるだろう
カタコンブの六つの実験室にはあらゆる塩が網羅されている
恋する悪魔は何処にゆくのだろう
マンドラゴラの谷間には丸木舟に括られた若者が定めに沿って流されてゆく
開門
そこから恐ろしいまでに爛れた躯を燃え上がらせて 魍魎が若緑に包まれた清澄な水面を滑って出発する
大樹の精は岩穴に棲む才走った小男に滅ぼされたのであろうか
青い魚が薔薇十字に辿りつき透明な花弁の下を泳いでゆくと黄金の彫鐫ができあがる
エルドレは胎内で夢をみる
エルドレの嚢中でも成長するものがいる
そして開門
厚みのない世界から出生したばかりの男の周囲にはごつごつとした岩壁がみられ それはゆっくりと収縮している
長く暗い洞窟の至るところの窪みには苔や薇や蕨などの陰性の植物が繁茂している
天井や壁面また地面のところどころに得体の知れない悪臭を発する海綿状の柔らかな岩石がこびりついている
奇崛な岩肌は地下水の重い濛気に被われ暗い穴の中で黒陶の光を帯びる
壁に触れるとその重い輝きが粘液性のものであることが了解できる
そして食肉性の根や茎に付着している鋭い棘が掌に喰いつく
強い酸性臭がたちこめ 獲物をからめとろうと獰猛な蔓が伸び それらと軌を一にして洞窟の全体が急速に収縮する
エルドレはこの奇怪な運動によって反対の壁に弾き飛ばされる
このように繰り返し弄ばれるうちに衣服のあちこちが裂け 背中にへばりついている吸血鬼どもはその破れ目から侵入し エルドレの皮膚を引き剥いでゆく
その運動は だが空洞を消失させてしまうほどの激しさには至っていない
ひりだされながらエルドレはいたぶりの地震の中を一目散に駈け抜ける
だがその逃走の行手には背中や脇腹や顔面からしたたっているものと同じ色の炎が燃え上がっている
焦げる海
紅に蝕む化石
熔ける薔薇
面会に来ない父たち
エルドレは吸血植物の触手やその口腔いっぱいに湧き上がるどす黝い唾液に脅かされ ただやみくもに炎の障壁めがけて身を投げ出してゆくのである
だがそれは純正の炎ではない
あまりに鮮やかな炎の彩を吐く一枚の布なのである
纐纈巾はエルドレを迎え入れ大きく膨らみひるがえる
同時におびただしくあふれる血液を拭い取ってしまう
緋色の扉はなおいっそう生き生きと燃えさかり しっかりと出口を遮断する
おお茫然自失のまま立ち尽くすエルドレ
大いなる幸運と安逸さにふーっと肺を萎ませ息をすっかり吐き出して完全な脱力状態に陥ったその刹那 横あいから高い気合とともに太い腕が伸び がっちりと両脇を拘束される
エルドレは眩暈と脳天を貫く痺れと激しい呼吸困難に打ちのめされる
充血した楯が音をたてて倒れ 銀色に燦く穂尖を天に突き赤銅色の逞しい腕を重武装で被った二人の衛士に両腕を掴えられているのだ
息切れが波頭のように押し寄せその頂点でほとんど窒息しかかり 足許に蝶を咲かせた金雀枝が熱風に煽られ優しく笑っているのが目に灼きつくと 頭の重い蓋が抜け飛んだように軽やかな安息にのめってゆく
その暗いレトルトの細いくねった管を伝って濛々とした荘重な低音がふつふつと昇ってくる
“聖なる一切を穢すものは自然の生理によって自然の汚濁へ還ることになる”
“悪霊は地底に転落し世界は灼熱の業火によって舐め尽くされる”
これはアベスタの一節であろうか
甘酸っぱい味覚が夢の中を潤すことによってエルドレは再び混濁した液の底から掬い上げられる
純白の頭巾と顔を覆う布によって眼球だけを異様に目立たせた人物がエルドレを取り囲んでいる
それから腕と脚とを頑丈な鉄枷で四隅に引っぱられ固い寝台に仰向けに括りつけられているのに気づく
柘榴から抽出した興奮剤と山羊の乳とで醸された呑み物が口腔から喉へ快く拡がる
七人の司祭たちはとうにエルドレの皮膚を第三層まで剥ぎ終えぴくぴく跳ねる筋繊維を露わにしている
エルドレはだが皮剥ぎの刑の恐ろしい激痛を覚えるどころか爽やかな解放感を味わい ただ澄んだ眼球だけが事のなりゆきを冷静に観察している
高い天井をもつ四角い手術室の寝台のある壁の反対側には竃のある龕が置かれ その上でめらめらと揺らめく聖火を中心にして祭壇が設けられている
アフラマズダとミトラの力強い立像がこの室内を厳粛な中にも高揚感を絶やさないといった趣きで牛耳っている
神官の最長老と思われる瘠せぎすの老爺がその前に平伏し熱心に祭奠を唱い上げ しばらくたつと永劫の炎の中で清められている白い布を取り出し それから銅製のリュトンの中で沸騰している赤葡萄酒を宮廷用に誂えられた車の付いた銀の膳に載せて運んでくる
七人の禰宜()は“サラマンダー……”という文句を左回りに十一回繰り返してから すでに褐色に煮つまっている液体をエルドレの全躯に注ぎかける
それから別の小壜に詰められている山羊の白い乳汁を三十回に分けてふりかけ十四本の手で一斉に筋肉と骨の細部にまで擦り込むと それらの灰色の粘液が発光し しだいに真っ赤な炎の舌をあげ始める
沈着聡明な長老がその上で白い布をひるがえす
布がエルドレの躯を包み込むと それはあわただしく吸い込まれるように鎔接され 肉体の完璧な曲線をなしてゆくのである
これは正真正銘のサドラである
聖なる肌着はエルドレに与えられたのだ
七人の司祭は 龕の上に捧げられていた仔山羊の毛から取り出した七十二本の糸をより合わせた紐をエルドレの頭に巻きつけると 祭壇に頭を垂れて長い長い祈りに就くのである
灼け尽くすような光の大洪水
残酷で生命の源をことごとく呑み乾してしまう火刑の大劇場
生物はあらゆる生物の種を狙い 己れ以外の生物を絶対的な敵として 尽きることのない攻撃を陰湿に繰り展げている
ああ あそこにもジャンピング・チョーヤの鋭い雨が降り注ぐ
メスキートやオコティーヨなどの灌木の密生するすぐ向うにはサンド・ベルベナの紅潮した丘陵地帯が三日月状に散在している
自衛手段のために果肉を細らしている覇王樹の陰では角蜥蜴や後足の異常に発達した鼠や蟇蛙などが飛び出た目玉をきょろきょろさせながら コヨーテや穴熊や狐の夜間に敢行される狡猾な襲撃に備えて防塞を造っている
雛菊やエリオフィラムまたナマの黄色や白や赤や紫の可憐な花弁が蛾や蝶や蜂やハミングバードを誘っている一帯から遥か離れた彼方では 肌を抉る棘々しい風が数十メートルも砂塵を舞い上がらせ 摩訶不思議な迷宮のシルエットを紫色の光の緞帳に映し出し またたくうちに古代史の彼方へと包み込んでゆく
十億年もの歴史をもつ微粒子は不規則な風に運ばれ銀色の星型砂丘を形成し 地底を支配する魔王の熱い息吹によってめらめらと赤く怒張している
幾何学的なこれら巨大結晶 巨大暗号 巨大建造物群 巨大人造湖 巨人像 巨大墳墓 巨大性器 巨大嬰児は燦く御影石の屹立する破片である
赤褐色のごつごつした断層を剥き出して滝のような砂の細流が濛々と飛沫をあげているのをはじめにして 中途で括れている大きな岩の塊や中空に浮かんでそれ自身で大架橋をなしている巨岩 さらに誇らしく天の中心を突き上げる数十メートルの直立する巌や 波のように無数に拡がる純白の石膏砂丘を一望させて視界を凌駕する丘陵こそは素晴しく神秘に充ちた天然の大庭園である
ポリフノエ・ゼムレジェリエは永遠の都から一千万セスタースの黄金を吸い上げ その中枢である大オアシスには幾種類もの樹木が豊かな水に祝福されて世界のありとある果物をたわわに実らせ 鮮血のように美事な夕焼けが棘と毒のある植物の華麗な花の乱舞を染め上げている
おお壮大な無機物の塩辛い砂の海原に浮かぶ夢の苑
だが蜃気楼は最も獰猛な囮である
そのような銀幕が干上がってゆくと エルドレを囲む地面は枯れかかった金雀枝の絨毯になる
汗を感じる余裕もなく急激に水分を奪われてゆく神殿址では 司祭たちのうねるような低い祈祷が幻の中に新たなる幻を生み出している
七人の司祭たちは自らの術によって巌のような整然とした永劫の形に化身する
エルドレを制した屈強の衛士は青銅の自動人形のように緋色の帳の両側で槍を捧げたまま硬直している
灌木の茂みも一塵の砂に帰している
不動の静寂を背景にして ただ祭壇に赤々と燃え上がる炎だけが一切の生命の収束点であるかのようだ
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