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i - 3 | 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月 |
中空でふんぞり返っている邪悪なるものの舌に白い裸身を翻弄させながら エルドレはあの美しき囮の彼方から不吉な砂煙が攻め込んでこようとしているのに気がつく
すでに死の呪いのうちに還りついているがらんどうの建造物は腐蝕と退廃に供され まさにあたりの砂とともに崩れ落ち同化しようとしている エルドレに施された夢はいったいどのような材質なのであろう エルドレは勇士の彫像から錆びついた鎧を剥ぎ取ると 徐々に紅を帯びているしなやかな肌に素早く装着する 身にまとうこの二重の衣はあってはならぬものへの断乎たる拒絶の姿勢である 生命の轆轤(ろくろ)のように無機物の塩の累積物を焦がしつづけている永劫の火がその焔の中に澄み透った玲瓏な鏡を現し 武装したエルドレの全身をことごとく明瞭に映じている この眼が映し出しているのは己れなのであろうかと嘆じると 炎がひと揺れするたびに二人さらにひと揺れすると四人というように鼠算式にエルドレの影が増えつづけ その数が四千九十六人に達すると次の十一回目の揺らめきで三百二十四人が加わり 十二回目の揺れでは四百六十八人が独自に炎の尖端から現れ 総勢四千八百八十八人の武士が十三回目の最も大きな揺らめきでエルドレの前に武装して登場する 精根を使い尽くして神の火は千数百年の寿命を全うする 第十回目までに登場した軍勢に十一回目の軍が加わり それらは二千二十四人と二千三百六十九人の軍団とに再編され 十二回目に生まれた残りの兵は二百二十人と二百四十八人の部隊とに分かれる 最も大規模な二つの軍団は槍と弩(いしゆみ)で武装した歩兵たちであり 後の二つの少数精鋭部隊は赤毛の駿馬に跨り緑の総のついた純血同盟の旗幟を靡かせ 象の皮を幾枚も重ねた金糸の縫い取りのある楯を掲げ 鋭い剣を輝かせて 先頭に立ってエルドレの前に進み寄る ああ絶体絶命のこの窮地 混乱と激しい恐怖という明白な予見 ひらき直りとやけくその専制支配 強いられることから生まれる力よ おお危機の深いクレヴァスの底から得体の知れぬ自信が湧いてくる 余裕をもった眼で屈強の軍勢を観察すると 兵士のどの顔も同じ眼つき一様の表情をしていて 彼らの造作がまったく単一の法則によってなされているのを知ると親しみさえも感じるのだ だがエルドレの貌と躯をもつゆえに最も危険な幻の軍団は 目前に迫ってくると 天地に轟く雷のように一斉に鬨の声を上げる まさに風前の灯 はたして断乎たる無援の逆襲を敢行すべきなのか だが手繰り寄せるべき糸口は兵どもの懐にある エルドレはだしぬけに先頭の騎馬兵の騎っている馬の横腹に飛び込むと その兵士を叩き落とし 手綱を奪い取って馬をまわれ右させ 力いっぱい馬の尻に蹴りを入れて馬群の中に突入する 前進していた騎馬隊の中に動揺と混乱が惹き起こされ 馬と馬とがぶつかり合い いななく馬上から何人もの兵が転がり落ちる エルドレも馬の横腹から振り落とされ地面を転がってしまう 混乱は最大の母だと呟くと すぐさま手近の馬をつかまえてひらりと騎乗する それからゆっくりと騎馬隊の殿(しんがり)の方に潜り込んでゆく まだ興奮から覚めやらぬ馬が前脚を小刻みに地面に叩きつけるのを眺めながら 何喰わぬ顔を装って隣の兵士に何が起こっているのかを問うてみる だがエルドレのとっさの思いつきもここまできて完全に覆されてしまうのである エルドレが声を出すと同時に馬の脚を注目していた両隣の兵士はさっと顔を引き締め 馬体を寄せてエルドレの両腕と手綱を奪い 彼を拉致してしまう 迷うべき何ものもなく見抜いてしまったのだ すると何の合図もなしに混乱はさあっと引いてしまい エルドレの前に道が開け 最前いたと同じ場所に連れ戻されるのである 呪縛に充ちた六芒星章の南西に位置する地下の帝国 枯槁した生命の綴る幻想の織物に腐爛した酸漿(ほおずき)が唯一の輝きを与えようとしている “はじめに聖言ありき” 以前にも以後にも何ものもなく ことばはまず偽りの姿をとって誕生する 不意に訪れる深夜のセールスマンは作り笑いをして 鞄に隠し持っている怪し気な物体に能書を喋らせる また場末の呑屋で三人の陰険な目つきをした極悪非道の道楽者たちが男色を餌に若造にいいようにからかわれるという一幕ものの喜劇を開陳するのも 装いのことばがその主調音である 不吉な怪物どもの巻き起こす暗い沙塵が迫ってくる中で 風籟に惑わされたにしても 兵士たちの間に一言も交わされていないことにエルドレは気がつかねばならなかったはずだ とはいえその失策がどのように重大な局面に彼を導いてゆくのかをみるならば 偽装工作はもっと遵奉されてしかるべきである 逆転した画面の結果元の映像にたち返るという見かけ上の出来事とは裏腹に エルドレの身に逼迫した危機は実にここで改めて解消されたからである 途方に暮れて茫然としているエルドレの前に四千八百八十八人の軍隊は整然と列をなし最大の敬意を示している 声をあげる者もなく不信のまなざしを向ける者もなく 最も勇敢で忠実なる奴隷として最敬礼しているのである エルドレはこの現象を解析しようと試みる 王家の血のゆえか 運命の好意なのであろうか いや そのような思いよりも早く 己れの不動の地位と支配力とを熱い血流のうちに覚えている 二組の友愛数によって組織され統制された極めて専制的な純血同盟の軍団は まさしくエルドレが造物した狂暴かつ従順なる歴史の影である 風化して半ば砂に埋もれた古代の王たちのモニュメントであるスフィンクスが散在している 墓の谷と称ばれる荒涼とした蟻地獄の彼方から 天空を覆う砂烟が押し寄せている 中空に吊られた鏡あるいは火球が邪悪な色彩に染まり その縁辺は次第に暗黒の侵蝕に屈しようとしている エルドレは配下の者が深淵の王国から掠奪してきた巨大な悍馬に跨ると あの隊商の列が富と欲望によって鍛えた広大な道を朋友たちとともにまっしぐらに駈け抜けてゆく その向うには墓の谷とそこに棲む怪物どもがぱっくりと獰猛な口腔をあけて待ち構えているであろう 墓の谷の中央を横切っている乾上がった河床の左側には 無数の矢狭間をもつ五十ほどの矩形の塔を連ねたほぼ長方形の防壁に囲繞された城廓がある この廃墟の真ん中を二十歩の幅をもつ大通りが貫き いくつかの横道がそれを分断して住民の居住区をつくっている 北部には広場と壮大な神殿が備えられ その隣の一角に四十メートルの高さの三つの堂々たる長方形の塔をもつ矩形の宮殿が聳えている その反対側の岸辺には完全なる円形の壁に包囲された城址がある これらの文明の夢を潰滅させその死の容姿を守護しているのは世にも恐ろしい怪物どもの群である 粘菌類を巨大化した白色透明の醜悪なる生き物というべきであろうか あの忌しい食人鬼やヨグ・ソトホートの呪文によって現れる謎の物の怪にとってさえも辟易するような獣 腐った魚の眼や臓物や鱗の間から湧き出してくる異臭の柔らかな羽根布団 息を封じてしまうような脂の強烈なやすらぎ おお汚辱にまみれぬるぬるとへばりつき 納豆の糸が泡を吐きながら彼らの茵をつくっている のっぺらぼうで得体の知れない交接現場の貌と尻 繊毛もなく棘もなく地獄の濛気が凝縮し さながら状態の魔物となっているのであろうか 彼らはその微細な部分においてまず単一の個体でありながら その個々の悪夢の厖大な集積という全体で唯一一匹の生き物なのである 動物磁気は彼らの生活を支配するおびただしいエネルギーであろうか また穢された体液の混淆物こそ彼らのメスメリスムであろうか 互いに喰い合いながらもますます増殖してゆく原生動物の処世原理で何を生み出そうというのか ありとある神々と自然とその被造物に敵意を抱き殺戮に明け暮れる哲学の大魔王たちに 祝福は常についてまわるものなのであろうか エルドレは騎兵たちを怪物どもの左右に陣取らせ 歩兵のうち槍で武装した部隊を横十列に編成し前面に布陣させ 最後に弩部隊をその本隊の左右に位置させる まず二つの弩手の部隊が雨霰のように宣戦布告の攻撃を始める と同時に本隊が前進し 鋭い得物を振りかざし怪物どもの前部側面を剥ぐように襲撃してから 二手に分かれ 敵の左右でそれぞれ隊列を立て直す 騎馬隊はそれより少しく時をずらして後方を攻撃し 後方の左右に改めて陣取る 執拗な剥離戦法と前後左右を常時固める完璧な布陣によって 怪物どもはその数を減少させられ中央に封ぜられ 為す術のないまま巌のように硬い一箇の円錐になってしまう エルドレの軍隊は怪物どもを完全包囲し 勝利を目前にしていっそう血気にはやってゆく しかしこの勇敢な攻撃はそれ相応の輝かしい武勲とおびただしい犠牲によって成し遂げられているために 騎馬兵と歩兵の約半数が怪物どもの触手に捉われ 半透明の袋の中で液という液をことごとく吸い取られ 無数の塵と化して砂漠の歴史に回帰しているのである とはいえ造物主であり策謀に長けた軍帥であるエルドレの足許からむくりと影が起き上がり 犠牲者と同数の勇者を生み出している だが影が簒奪されるにしたがいエルドレは疲労困憊し また兵自身の影も薄くなってゆき 軍勢は弱体化している 最後の攻撃によって決着は早急につけられねばならないだろう まさしく今こそが圧倒的な布陣の下に優勢なのだから 一斉攻撃の号令が発せられようというときに だが半数の兵をくわえ込んでいた怪物どもは凝縮をつづけ 円錐の尖端に雷光を帯び それから細密な罅を生じ いきなり以前の三倍の大きさに膨れ上がり その数は増殖することによって一挙に十倍になってしまうのだ おお この巨大化現象は攻防を逆転させてしまうに足りるであろう エルドレは全軍に退却命令を下すが その伝令が駈け出している最中にも怪物どもの逆襲は獰猛を極めエルドレの影はますます薄くなってゆくのである 猛威を振るう邪悪な粘菌類は容赦なく体液を求めて絡みつく 軍隊は蜃気楼だ エルドレはもはや立ち上がることも能わずにじりじりと地を這って逃げ回る 今にも光と同化せんとする幻の純血同盟もただエルドレの写し絵である 灼けつく光の大攻勢に乾ききった熱い岩肌を露わにした道の際を越えその蔭に躍り込むと エルドレは岩の間に不思議な植物が匿されているのを発見する 掬み上げるとちくりと指を刺すのである 褐色に萎びて今にも崩れそうな屈曲した茎がさっと青みを帯びるのを見て エルドレの記憶簿の頁に艶やかに朱で記された毬華葛(まりげかずら)ということばが浮かぶ 毒には毒と呟くと 最後の力を振り絞って毬華葛の干茎を吸血鬼どもに投げつける エルドレの消え入りそうな影たちもてんでに投擲する おお 海綿様繊肉質の内部をもつ茎は液体の獣に突き刺さり その汁をまたたくうちに吸い込んでしまうのである ぐえーっという低い呻きが谷を揺動すると みるみる成長している植物に絡みつかれて怪物どもはどんどん小さくなってゆく 今や塵と化した怪物どもは 彼らと入れ替わった蔓草の茂みのうちに密封されているのだ 何という対症療法の見事なる勝利であろう 怪物の呪縛で実に数千年の荒廃を余儀なくされていた城は 栄光も艶やかな祝福に充ちて 蜃気楼のように荒涼とした砂漠の真ん中にその華麗なる姿を浮かび上がらせる 神々と呪わしきものたちとの諍いはここに終結をみるかのようだ だがその邪悪なる物語は姿の定かならぬ主人公と同様の姿態を取るに過ぎないだろう 滅びるものはあらゆる滅びの予見である 蟻地獄の逆円錐の壁に囲まれた底では 鬱蒼たる悪魔の灌木がすでに赤褐色に萎えた不吉な陽光に映えて妖しい気配を漲らせている 聖らかな至福に充ちたボウの叢とのなんという対照 母と妹の三位一体であるエレアとの恋はいずれに属するのだろう |
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