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i - 4 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月

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闇に囁くものたちの勢力が拡がるにつれ 再び蘇ってゆく火と鏡とを材質にした逞しい武士たちを率き連れて エルドレはもう潤いを呼び戻した河の右側に高く堂々と聳える円形の宮殿に赴いてゆく
唐草のびっしり絡まった城壁を取り巻く幅の広い濠には巨大な跳ね橋が渡されている
音もあげずに橋が跳ねるのを振り返りながら無数の矢狭間の並ぶ二つの円筒に挟まれた拱門に進んでゆくと その奥から明るい光とともに優雅で澄明なソプラノが和し甘美な娘たちの匂いが漂ってくる
城壁と円形の宮殿との間で輪を描いている庭園には色とりどりの花もさることながら 涼し気に幾つもの噴水が高々と舞い上がり 内部から綺麗な光を発する漏刻がそのひとつひとつの側に置かれている
武勇を誇ったり愛を主題にしたり厳そかに神々を讃えたり たとえば木に縛りつけられた金髪娘とそれを襲うタイガー その娘のはだけた胸を蔭から覗き見るハンターなどといった野外劇あるいは仮面劇を思わせる大小の立像が 花苑や小鳥たちの囀る叢林の中に幾多並んでいることだろう
宮殿の高い入口は成金好みのごてごてとは異なり絢爛でありながら上品な装飾が施されていて 当主の趣味の良さを感じさせる
その図柄は蠍を際立たせた四大の精霊のもので 透き通るがごとくのレリーフである
この宮殿の一階中央には縦に二つの矩形の大広間が続き廊下のように並び 壁全体をカンヴァスにした絵には古今東西の動植物および建物 山脈 運河 湖が鏤められ その手前の部屋はありとある絢爛豪華な快楽が象徴され 奥の部屋には崇高な神々の国が美事に描かれている
高い天井に貼りつけられた星座は明るいシャンデリアに隈なく映し出され 幻想的な物語が繰り展げられている
黒檀の円テーブルや大理石の龕やマントルピースには細やかな彫刻が絵巻物のように飾られ 金銀の食器には酒や数百種類の料理が盛られている
二つの広間に挟まれた鍵型の渡り廊下の中央に極めて深い井戸が掘られていて そこからは芳醇な匂いを湛えた黄金の美酒が湧き出ている
これらの中央を貫く通路の外側にたくさんの数の個室が割り当てられ そのどの部屋からも必ず二階へ通じることのできる螺旋階段がさらに外側に太い帯のようにして備えつけられている
屋上の庭園の真ん中に尖塔のような天文台が設けられ その天文器械には蚤たちの製造した精巧なレンズが使用されている
快楽の広間に嫋やかな腕をもつあらゆる種族から選りすぐられた娘たちが幾千人といるのだろう
娘たちは細い躯にぴったり吸着する繻子織の胸や背中や太股の部分の切れ込みの深い衣裳をつけ その中にはときおり一糸も纏わずに優れた肢体を晒けている者も見受けられる
大きな踊りの渦は強大な吸引力を備え いかに火と鏡とを材質にした四千八百八十八人の屈強な若者といえどもたちまち呑み込んでしまうのである
槍や楯や鎧や剣などの武具をことごとく解除した若者たちに 噎せ返るような娘らの裸体が絡みついてくる
様々の形と組み合せの豊富さで媾いが繰り展げられる
大食漢は百二十の大皿に盛られた料理と三十の大樽に詰められた強い酒を平らげてしまう
そのような大食漢が少なくとも五百人はいるのだ
性豪は一度に千人の女を相手にし五十回の腎水を迸らせる
喉の良い者は古今東西二千の歌を披露する
そのどれ一つをとりあげても一千行に及ばぬものはない
力自慢の男は朋友の愛馬四百六十八頭と指揮官の巨大な悍馬を鎖で繋ぎ城外に引きずり出し 深い濠の底に叩き込んでしまう
男たちの荒々しい咆哮と咽び泣くような女たちの激しい吐息が唱和し その切れ切れに獣の断末の叫び 鞭の唸る音や神々を呪う罵声や糞尿の匂い 乱れ飛ぶ血に噎せって惹き起こされる咳や嘔吐 そして人肉の香ばしい匂い 骸骨のからからぶつかる音や決闘に一瞬休止符を叩かれどっと湧き上がるどよめき 蛇や嬰児を弄んでの笑い 酒瓶の粉々に砕ける音や火の燃え上がる凄じいバス そして狂気のソロが高々と歌われ 尻をぴしゃぴしゃやるリズムや転がる食器やテーブルの上での複雑な媾い 変化に富んで組み合うもの 大喧嘩 大乱痴気にかなりの数の乳房や首や陰茎が供託され 尽きることのない快楽の交響曲は壮大な仕上がりに向っている
媾いに食傷し強烈な渇きを覚えてエルドレは 宮殿の中心にこんこんと湧き出る泉であの聖アントニウスの伝説にある数千の味覚を充たすという霊液を流し込み 喉が潤ってゆくと躯の芯からめらめらと精気が立ち昇り その奥に通じている神々の広間へと誘われる
グリュフォンが人頭を踏みつけているさまを彫り込んだ荘重な大扉を押し開けると 老女が柩に横たえられ それを囲んで若いぴちぴちした生贄たちが裸のまま跪いている
天使のように美しい姿をしている十一歳以下の少年たちと頬を桃色に染めた可憐な少女たちが十数人ずつ両側に膝をついて並び 形の良い尻と胸を持つ二十歳をようやく越えたばかりの選り抜きの美女数人が老女の頭の方に座っている
厳粛な気持と淫らな情欲とが鬩ぎ合っているエルドレは柩に近づいて覗き込む
老女の容貌は気品のある鼻骨を中心にしてよく整っている
どこかで見覚えのある顔だ
だが過去は弔われつつある
黒塗りの柩の中で老女の唇は青みを帯び 昔の栄耀を刻みつけた細い裸体は透き通るように白くなる
かすかな呟きが唇から洩れようとするが すでに力尽きただ頬の筋肉が顫えるばかりだ
そして異様に大きく窪んだ碧の瞳がその奥にちらちら赤い炎を揺らめかすと エルドレをじっと凝視るのである
その最後の瞬間にエウスタキー管は開かれたのであろうか
尋常ではない言葉の形に打擲されてエルドレは一挙に狂乱の影を帯びる
荒々しい声で少年と少女たちに向い合って並ぶように命じると よく(しな)う鞭を各自に持たせ互いを打ちのめさせる
彼らの無垢な躯はみるみる蚯蚓(みみず)腫れを呈し蛇神の手下どもの無残なる巣窟と化す
エルドレは素裸の乙女たちの尻を情容赦なく鞭打ち 前と後ろとを抜いて気をやりながら腰の短剣で豊満な乳房や美しい首筋をひと振りで刎ねてしまう
さらに少年と少女たちにそのどくどく溢れる血を貪るように命じ その血と鞭の饗宴の中で次々にまだ硬い躯を持つ子供らを襲い 肉と鋼でできた二種類の剣の餌食にしてしまうのである
それから祭壇を蹴倒し その火が脱ぎ捨てたばかりの衣から神々の壁画に燃え移るのを確かめると やおら柩の中に躍り込む
エルドレは最前死んだばかりの老女を凌辱する
まだ生温かいよく業を極めた腟と肛門の中におびただしい液を注ぎ入れると 老女の躯は死の姿のままみるみる若返る
おお何という素晴しい悪意
その至上の美貌はまさしくエルドレの実母の俤である
猛り狂う逸物は だがなおも激しく漿液を噴き出すのである
少女の愛らしい姿から無邪気な子供へと さらに純白の嬰児へと退行し 聖なる胎児の歴史を逐一回想してゆくと それらの肉は消滅し エルドレの躯にはただどろりとした邪悪なる液体が残されている
柩の周囲に崩れている屍体が一斉に腕を上げ天井を指さす
エルドレは飛び起きると部屋の隅に設けられている螺旋階段をぐるぐるぐるぐる駈け上がる
二階には“賢者の階段”“エリクシルを調整するときの輝かしい石の書”“秘密を開明することの書”そしてあのゲーベルの“慈悲の書”や“濃化の書”さらに有名なるヘルメスの“偽デモクリトスの書”また“天球分割の理解の終局”などという金箔で象嵌された題字をもつ古代の書物を厖大な書架に収蔵した立派な図書館や 歴代の翕侯(きゅうこう)やその眷族を讃えた彫像や愛妾たちの肖像を飾った美術館がある
だが今や紅蓮の炎に包まれ それら真昼の文明は滅びようとしている
階下ではおよそ一万人の若者がそれに殉じている
屋上の空中遊園の花々は炎の中で妖しく揺らめき その絶世の艶やかさは大饗宴の供物と化した焼け爛れる人肉を滋養にしているかのようだ
エルドレは階段を昇りきり 中央に鋭く(そそり立つ天文台に入り込み そこから空を見上げると ありとある喧噪がまるで他所事であるかのような美しい光景が展開されているのを知る
おお天を視よ
漆黒の夜空には流動体の火が流れている
様々の色 特に紫や赤に変化する一条の焔から薔薇色の光沢をもつ色彩が発せられる
中宇に一つの手が現れ 薔薇色の光沢はまずその背後に密着し それから包むようにその周囲を優しく舞っている
地獄第七界に君臨する大王は地上に顕現し人体宇宙の中枢に大洪水を齎すのであろうか
その色彩と手とは ゆるやかな弧を描き彼方へ去りゆこうとするが 今にも消え入ろうというあたりで停止し その地点に明るい光が現れる
手はそこからさらに後退しようとするが 突然鳥に変貌してより自由に飛翔する
そのうち羽撃く大鳥は石のように硬直してなおも飛びまわる
それは最初真珠色の光沢をもっているが ついには黒色に至ってこの天文台目がけて墜ちてこようとするのである
空と地はこの天文台に向って近づいてくる
周囲の色は灼けるような鮮紅色だ
あらゆる物質は熔かされてゆく
エルドレは世界の混淆とともに何処へ流されてゆくのだろう
出入口といえば あの青銅の衛士の守護する緋の扉しかないというのに
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