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ii - 1 | 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月 |
世界創造説コズモガニーの窈窕(ようちょう)な原理によれば 端初には大地と暗黒と愛とが鍋底を形成する
無花果の成熟する二つの季節のように投擲された夜は戻らない 夜の卵から生まれし者 汝の矢筈と炬火を用い生命と歓喜のバラッドを織り出そう 息子らを喰う巨大なる神クロノスの掌で 肉の筒は葬られるべき運命に従い記憶のレトルトに転身する おびただしい眩暈 光暉あふれる朝が生贄を健康な緑の海洋に曳航する 朱塗りの船団が穏やかな入江に碇泊している 眩い白砂が黄色の頭花を散状に開いたハマニガナの叢を優しく抱く 幾星霜もの波に洗われすっかり丸味を帯びた流木や壊れて薄く塩を吹いた貝殻や所帯道具や玩具が散乱している いかなる砌(みぎり)が青史を彩っているのだろう ルーン文字を眺め 年老いた遺跡監視人は幸福な民族の住める北の王国ヒュペルボレナスの伝説を反芻しているのだろうか ピトスと称ばれる大甕に海洋文明は九十の諸都市を封じる 出納帳に記されたヒエログリフや線文字に強い陽射が照りつける 広袤(こうぼう)とした天空を仰ぐがいい 自然の美しさよりも峻厳な時の器 神々の摂理がうら若い乙女を破滅させるさまを 処女懐胎とは女学生の自己分析に因む 眼球の中で焔が躍り 幼児の頭脳は殺人事件を再現する 衍文を粉飾し アンスリウムの肉穂花序のように仏縁を願おうか 母なる漆黒の象が長い鼻から夜を吐く 両性具有の守護神はひとときの慰安を口遊む ボウの魔術の中枢をなす催眠の大通りに聳える拝殿 そこには微かな光を帯びると伝説の神託の紫色の文字を浮かび上がらせる魔鏡が匿されている 聖地ラドルの高敞な景観 なによりも至るところを妖艶な気配で充たす七色の叢 それに没薬に浸されたかのような芳香漲る空気 そして典雅な旋律を奏でる清洌な微風 だが甘美な祝福に包まれた建物の中になんという不吉な呪いが蔵われているのだろう 魘(うな)されるような熱気の只中でエルドレは悲憤の暗礁にのりあげ 葬られた記憶の波間を漂う “……神々の理によれば在位中の王の胤裔が栄光ある宮殿で晨暉を迎えたとき 永えの繁華を約束されていた都に恐ろしい不幸が見舞うであろう ボウの豊沃な生命は失われ黄金時代が瞬くうちに鉄の時代へと転変する なぜならばそのとき神々の御世は……” ラドルの王位は世襲を宗とはしない 神々との取り決めに準じ ボウが二度蘇るごとに催される大祭典の競技会で四度連続して勝利の月桂冠を戴くつわものを後継者とする 王位継承者はラドル第一の美人にして最高の巫女である王妃を王との共有の配偶者として娶り 即位するまでの期間を王の良き息子として振る舞い 王に与えられた快楽をともに頒たれる 王妃は義子を第三の夫とする なぜならば王妃は神々の正妻であり 彼女を通じて王は神々の恩恵に浴し 後継者は神々と王との恩恵と歴史に与(あずか)るからである ラドルの民はこれを王家の三位一体と称す ああエレーア 最愛の恋人よ ナクソスの市民ティサンドロスのように 晴々しい誇りと昂る希望に充ちて四度にわたる勇猛のあの苦い杯を戴くことがなかったならば 胸はり裂けんばかりの非情な宿運の鏃に突かれ エルドレは熱病のごとき出産の悪夢から這い上がる 勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃色の花のように破滅は栄光の兄弟である 純白の雪が平らな野を蔽う アルカディアの地に踊る獣神のように 舞台装置は降雪を止め 頭上に真っ青な空を映じる 骸骨の踊りと名称けられた無垢な雪原はいま燦々と輝き迸る一条の真紅の帯によって二分される 巨大な岩の据えられていた避難所からエルドレの運ばれてきた北の際まで 小川のように産褥の血がおびただしい あの入口と出口とを兼ね備えたアストロラビウムはすでに妖婆たちの棲む深いクレヴァスに転げ落ちたのだろうか もう跡形もない不思議な巌を通じ エルドレにいかなる変化が齎されたのだろうか 夢の効果は生理作用にまで及ぶのか 凪の時刻に潮の香が仄かに寄せる 潮下帯の岩場で海老刺網を用いて獲られた海老やザリガニの種属である体長数メートルの巨大な蟹を真っ赤に茹で 大味を加減するためにタルタルソースや甘酢また酢醤油で食す 海の羊肉といわれる鮑や海藻を化粧品として摂る栄螺(さざえ)を殻から取り出す 柔らかな鰍(いなだ)を味わい こりこりした鯵を頬ばる 茗荷を箸休めに添えるのもいい 辛口の美酒をたらふく呑んで酩酊した高所恐怖症の男が千鳥足で浜辺を散歩の途中ズボンを破る 熟した柿は烏の格好の餌だ 山道には風に飛ばされた蜜柑が散らばり その中を杖に縋る中風病みの百姓爺がゆっくり登ってゆく 晴天の薮に蹲り詩人は年毎の錘を垂らす 蘭の奇怪な花弁から発せられるくらくらする匂いの中で 青い蝶の標本が見世物小屋の轆轤首の女に重なる 漆喰でできた飛天のように 風呂場で転倒する盲目のモーモスは八方睨みだ 釣鐘のような巨根に幸あれ ポルボイ・アポローンの馭するチャリオットの轍を残した蒼穹には苦行が待つのだから 薮睨みの狂犬に出会えば運命の女神モイラの鋏に追い駈けられる 呼鈴が鳴れば毒入りのコーヒーが待つ ええい 栄光などは名工ヘーパイストスの造る拍手係に任せておけ 六芒星章の北端に位置する未踏の帝国 その屹立する山巒(さんらん)の頂を仰ぎ エルドレは身を切るような颪(おろし)に裸体を晒している 寒さなど微塵も感じていない あの生体実験によって与えられた新生の肌サドラの聖なる力が雪原の底冷えを遮断している 貧寒とした古代樹木の裸木が鬱蒼と生い茂るさまを左に俯瞰し右側の峡谷を覗くと 丸々と肥え太った灰色の小動物が所狭しと駈け廻っている 二つの川の合流している谷底がエルドレの直下に見える そこには北壁に向って人口の水路のように青い水が湛えられ 対岸に抉られている小さな嵌谷から金色のきらきら耀く光が水路に射し込み 漣(さざなみ)がその波長に応じて小刻みに燦いている そこはコーキュートスやレーテーの河のように忘却と嘆きの岸辺なのか また老衰寸前の国家間における紛争の膠着状態が生んだ運命の糸口に至る汀なのか エルドレは此岸に霞のように朧気で脆い小舟が繋がれているのを見る 疾風が疾る 剽忽にして冷気が背筋を噛む 木立を根こそぎ揺るがす烈風 エルドレは切り岸を降りようと決める 青銅の衛士から奪った剣 あの幾多の幻を血に染めた短剣を取り出し 胸や太股の表皮を薄く剥ぎ それで長い紐を作る サドラは強靱なコスティに変貌する 槓杆(こうかん)に鷲の姿が彫られ大粒の真珠が象嵌された短剣を 風化層の固い岩に渾身の力を罩めて突き刺す 紐を柄にしっかり結えつけると 確かな足場を定めながら徐々に岩棚へと降りる そこから水路に向って突き出た庇(ひさし)にさらに紐を巻きつけ小崖の底に辿り着く きりたつ断崖の険しい岩肌にへばりつき崖下に達するのにどれほどの擦傷を要したろう 血はつきものだ 流せるだけ流した方が得策である 情を知らぬ渡し守のカローンならば百年の流血も渡し賃にはならぬというに相違ない エルドレは自ら剥奪した肌が瞬間の微熱のうちに再生しているのを知る 海藻を甲羅に植えた磯屑蟹が驚いて転石の下から這い出し緑色の足を忙しく動かす 潮溜りに棲息するガンカゼや刺胞に猛毒を匿すイラモに用心しながら波食溝や溶食穴を跨ぎ越える オオアカフジツボがまだ濡れている波食棚の一帯をリトマス紙のように赤変させる 水中には甘海苔や袋海苔などの紅褐藻類が揺らめき ウミノトラウオやクロソゾが樹木のように黒い枝を強調し さながら大森林だ 岩に固着しとぐろ巻く白い大蛇貝や 岩蔭に貼りつく灰色の斑模様のある雲形海牛 エルドレはこの水路が入江の延長であることに思い当たる するとあの洞窟は海に通じているのか 小舟は波食残丘の尖った岩に繋がれている 貪欲なニセスナホリムシや長い触角をぶら下げたフナムシが舳先からすばしっこく鎖を伝い岩礁に這い上がる エルドレは舟に乗り込み金色の光の洩れる窟穴に向って漕ぎ始める 小舟はいま入海の水路を辷りエルドレを外海へ連れ出そうとしている 透明な水底には鮮紅色の鰓冠(しかん)を拡げる茨簪(いばらかんざし)や沙蚕(ごかい)が戯れ その頭上を擬死した黒海鼠が白濁した粘液質のキュービェー管を排出したまま流れている アナアオサの群体が柔らかな葉を拡げ岩盤の全体を緑の草原に化す 小舟は静かな波の下に棲む生物たちの上を音もなく辷り洞戸にさしかかる 成長した牝猿の尻のように 穴の上辺を境に水分を含んだ焦茶と乾いた赤い岩が露出する 満潮のときにこの通廊は海水で閉ざされるのだろうか エルドレはひんやりした冷気をおぼえ 暗い穴の向うに明るい光と青い海が続いているのを知る してみればシュプレーガデス あの打ち合さる岩のごとく ウェヌスの愛する鳩を捧げねばならぬのか 三日月湖でボート遊びを楽しむ恋人に帰還を命じる拡声器の声は オールドミスの預金通帳のように深刻である ヒマヤラ杉の樹皮には亡霊の顔写真が貼られている 貸自転車で沼沢を一周する 乳房と尻の区別がつかない 森の彫刻館で炎の舌が水晶を舐める 少年たちは弁当を食う合間に薄暗い木蔭でキュロットから青白い性器を取り出し自慰に耽る 青春の青っちろさを犯すのは格別の快楽である 猿たちも衆人環視の縄張りでは極度に神経過敏だ 赤ん坊が放り投げられる 熱帯植物園の不透明な円蓋の中で 尾の長い鳥や王冠を戴いたけばけばしい鳥が布を裂くような悲鳴をあげる だが船酔いしない者は航海の間中ひどく退屈だ 夜汽車に揺られ酒を呑んで眠ると 目的地の真夏の炎暉が疲労と頭痛をからからに乾燥させる 山の中腹に立つ朝市は雨の恩恵によって幻の文体をもつ 浜辺で襤褸を纏った漁夫が蝿のたかるにまかせた新鮮な幸を大きな包丁で叩き割る ぽっかり口を開けた洞窟を抜けると エルドレの眼前に感銘すべき自然の造形が現れる おお 瞠目すべき絢爛な光の饗宴 海は望郷の如くエメラルドの華麗な夢を擁くのだろうか 虹のように変化する波はゆるやかな優しい稜線を描き小舟を迎える 弓なりに海洋を支える高い陸地はオリーブやオレンジの果樹に埋もれ 水平線と交わる所まで明るく豊かな緑を燦かす 飛沫に洗われる鋸状の岩壁 屹立する黒い巌 飛石のように連なる小島 サッフォーが美しい裸体を投げ出したレスボスの険しい断崖 彼女の歌はセイレーンの甘美な咽喉を介して何処へ流れてゆくのだろう 三叉の戟(ほこ)に掻き回され純白の潮を吐く渦が無数 翼をつけた少年の失墜した海よ 琥珀のように滑らかな沖合はありとある愛の悲劇を呑み込み 静かなうねりを永劫の涯まで繰り返す うねりに抉られた水晶球に世界の歴史は封入されているのだろうか 波頭に勢いよく首を突っ込んだ海鳥が笛のような音を発し 青い空に舞い上がる 太陽は中天に座し燦々と豊かな恵みを注ぐ 緑の海洋はディオニューソスの祝福を浴びまろやかな歓びにあふれている 一筋のリボンのようにしか見えぬ赤道が生命の鮮血を与えるように あの百人の武将が乗り組んだアルゴー号のごとく豪快な檣(ほばしら)に銀箔の帆をはためかせ 三層に及ぶ櫓の並び 船首にユーピテルの雷霆を銜える大鷲を装飾したガレー船が沖の方に碇泊している 威風堂々たる船に向って両手を差し伸べ合図を送るが何の反応もない エルドレは勇ましい船に向って小舟を進める だが近くには大きな渦が巻いている 徐々に渦の力に呑まれてゆく 小舟はぎしぎし軋む 筋肉はいまにも千切れ心臓も破裂寸前である 小舟は落葉のように渦の周りを回り始める エルドレは抵抗を止め 力を抜いて深呼吸する 大きな弧を描く間に力を蓄えるのだ ほぼ一周して小舟の舳先がガレー船に向いたとき 思いきりよく躯を渦の外側に乗り出させ 渾身の力で素早く櫓を操る すると小舟は渦の求心力の範囲からするする抜け出て もの凄い速度で目標へと直進するのである 禍いの渦巻は呪いの赤い泡を吐く エルドレは小舟を舷側に漕ぎ寄せ大声で到着を告げる 叫びは海洋の静かな拍動の中に吸い取られる いかなる返答もなく あの生命の動悸すらない 赤ん坊と三人の女が見当たれば紛れもなく幽霊船であろう エルドレは甲板に上がり檣頭(しょうとう)や艫のあたりに人影を捜す 艙口をあけて埃や黴の臭いのする船室にも首を突っ込む この船は無人なのだろうか 船艙に降りると崩れかけた灰色の骨が散乱する 薄暗い船腹は棺桶のように不吉な空気が澱んでいる おお千年の時間とともに朽ち果てた密室 上甲板の船橋の奥に船の全貌を見渡せる部屋がある くすんだ玻璃窓が四方に繞らされ 中央に据えられた上等の黒檀製の文書机の上には古い羊皮紙に記された地図が展げられている 上方にコの字型の陸地があり下方に細長い島が横たわり それらに囲まれた海には無数の群島が描かれている エルドレは東方の陸地の小さな入江から南方の細長い島の中央に向って朱線が画かれているのを見出す 始点は“ペルガ××”と読み取れる あの古代の港 アテーナの像を奉じた大祭壇と二十万巻の蔵書を誇る図書館 なによりも黄や淡紅色の可憐な花パピルス草の短い茎を羊の背に植え文明の爛熟を謳歌した都 部屋の四隅に白木造りの吊棚がある そこに鋭い輪郭をもつ灰色のミニアス陶器や格子文棘文の上に純白の花飾りを咲かせたクラテルが並ぶ 清楚なコンソールテーブルの上に双耳杯や家鴨(あひる)を擬した水晶の水差しが置かれている エルドレは甲板に戻ると 海洋との長い交渉で赤く腐蝕している錨を引き揚げる するとどのような力が作用したのだろう 三層の櫂が勢いよく海面を叩き 舷窓から船乗りたちの歌が溢れ 白い帆は風を一杯にため込み 素晴しい船足でこの船を運ぶのである |
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