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ii - 2 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月

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エルドレは周囲を見回して驚天する
誰もいないはずの船に一瞬にして数十人の男が現れる
逞しい躯を陽光に晒しながら忙しく走り廻っている
一人の水夫が檣楼(しょうろう)見張所からするすると辷り降りるとエルドレに向って駈け寄る
茫然としたエルドレは為す術もなく佇む
エルドレを気遣うものとてもない
だがその男は視線を合わせることもなく エルドレの躯が空気であるかのように擦り抜ける
エルドレもまた確かに船乗りを擦り抜ける
否 確かなものなどありはしない
一切は一炊の夢 まさしく眩暈のうちにある
これもまたあの灼熱の国の贈物サドラのなせる神秘の技であろうか
あるいは自ら幽境に徨い出た結果なのか
見張りが航海の順調を告げると 屈強な男たちが甲板に勢揃いし車座に腰を下ろす
十数頭の山羊や数十頭の鶏が船底から引きたてられる
十箇の酒樽が転がる
全身剛毛に蔽われた男が大きな刀で動物の首を刎る
甲板がその血を啜ると酒盛が始められる
竪琴が潮の甘い香りに誘われて武士(もののふ)たちの長い戦の唄を奏でる
真紅に熟れた太陽を目指し(こうのとり)の群が翼を燃え立たせて飛ぶ
古えからの作法通りに漣が船縁を叩く
物質の記憶はプラトーン立体のごとく壮麗である
錬金術士の登場に始まり嬰児が鼠に噛み殺されるまで時の嵐は悲哀そのものだ
数十人の暴漢に袋叩きにされる
叩き伏されて婚姻届に捺印する
暁の鏡の中で健康な髭が(おとがい)を包む
風を(こじ)らせ再び電話魔が出没する
白粉で生活を塗たくる
鮟鱇の生肝を賞味するたびに失恋の涙を零す
泣虫が片眼のジャックを捲りワイヤードを示すと小切手が乱れ飛ぶ
街路で器用に脚をあげ跳躍しながら頭上で腕を交叉させると嫉妬深い女から解放される
脹れっ面のモノマニアが哲学者は死んだと叫ぶ
栓抜きで盲腸を手術すると死者は死につつある者として蘇る
墓は空っぽだ
さあ婆やよ 寝台を暖めなくては
弟を伴い母親の寝室に忍び寄るエレクトラよ
おまえはもともと何処から来たのだ
薔薇色と灰色の絵によって要約せよ
ヴェスタ神殿の前にある斜面になった公園を抜けて道化たちの弾いた白球が転がる
街はぎらぎら輝く太陽の下に果てしなく続く紙片に変わり 人々は蟻のように右往左往し 自動車はあらゆる方向にぐるぐる回り 遥か彼方ではベルが鳴り響く
期待は期待する
人体に由来する原初的物質の臭気が全会葬者をすっぽり包む
午前一時が鳴る
やがて列車は出発する
小肥りの大道具係が空中ブランコに跨る
おまえは何処から来たのか
船倉で催された黒彌撒は青年を破滅に導く
縮れ毛を掻き上げると扁平で青白い耳朶が現れ女給たちの失笑の的になる
牧人の提瓶に因むデパス・アンフィキュペロンは三半規管を内蔵した歴史の挺子()であろうか
崖から身を投げると半索動物の巨大な糞が迎える
生ある化石三味線貝の触手がもつれ汚染された鎮守府の夜は長い
聖ヨハネを佚つまでもなく死者たちは死につつある者として蘇る
白鳥を抱くレーダーの産む卵こそ彼らを庇護する船霊である
膨らんだ帆の周囲でちらちらと赤い火が揺らめく
鬱蒼たる深山の樹々に生る(いぼ)胡瓜(きゅうり)の形をした蛭のように 今にも首筋や肩や脇腹に喰らいつこうとして
一日交代の生命を満喫しようと船乗りたちの顔に貼りつく双児座の鬼火
プトレマイオスの“四書”テトラビプロスは航海の神秘を開明する底本である
ピトルビウスは“星位によって人の運勢を占い過去と未来をいい当てる術はカルデア人の計算法に委ねられる”と述べている
魔方陣や友愛数など東方の文明を載せた船の中でアルカナは奇怪な姿を呈する
亡霊たちはしこたま酩酊し武士(もののふ)の栄光を甲板に吐く
いかなる予言と命数法が定められているのだろう
鰻のごとき腰巻を払いのけ丸裸になった彼らの毛穴から 酒気を含んだ汗が発せられ 噎せ返るような獣の精気をあたりに充溢させる
赤く染まった眼がふわふわと漂う
巨神プロメーテウスの息子デウカリオーンの手で放たれた瓦礫は骨と肉と血管を顕し荒々しい海の男を創造する
エルドレは跳ね廻る彼らの躯を通過しながら舳先の方に歩む
物質と物質は混淆しない
エルドレは幻惑であるがゆえに彼らから見知られることはない
男たちは鉄板の上に不吉な光を帯びた炬火を並べ火渡りや鉄火術や熱湯術を試みる
円陣を作り剣の技巧を競ったりレスリングに興じる
威嚇する太い唸り声や罵声や見事な技に感嘆狂喜する叫びで喧噪はますます絶頂を極め 檣の天辺から布張りの飛行器巧(グライダー)を背負って滑空する者まで現れる
両方枕でこのちらちら赤く浮游する炎を眺めながら エルドレの胸中に不思議な安堵が訪れる
いつのまにやらひたひた寄せる潮騒が聞こえる
度胸を誇った船乗りはそれぞれ対になって次第に物蔭で身を横たえる
ひっそりと静寂が船を蔽う
唾液や汗のたてる音が徐々に明瞭になる
微かな呻きが聞こえだす
次第に甲高い吠え声になる
逞しい胸と胸とで 鋼のような腕と腕とで互いを抱きあい 虚しい寂寥の賜物というよりも 第一級の健康の証として男たちは肉を賞味しあう
ソドミイの幽霊
ことごとく青史を培った者の武勲の誉よ
ポルボイ・アポローンの愛でし美形の少年たちを可憐な花に転身させるローマンスとは異なり 巨大な股巾着を突き立てて天球を揺るがすような祝砲を打ち上げる
漿液は天の辺と海の辺とを結びつけ濛々たる黒雲を湧出させる
神々のごとき猫撫で声は洩らさない
太い咆哮を上げ永劫の苛役を強いられたシーシュポス同様に 神々を悪様に呪い エリニュスの庇護の下に涜神しようとする
嵐を擁する黒雲の奥で 船首に括られた雷霆のごとく劇しい閃光が発せられようとしている
エルドレは微睡(まどろ)みながらラドルの闘いの日々を反芻する
あのロリエやオリーブの枝で編まれた勝利の栄冠を四度克ち得た日のことを
半歳の乾燥期の間を 白無垢の衣を纏い深い眠りに耽っていたボウの叢が ひときわ華麗に輝き 新たな生命の歓喜を呼び戻し うねうねと波打つ日に 聖地の若者は皆一斉にあの眉間の広場に群がる
競技会はオルリー公の腎水が新しく準備された勝利の冠に注がれるのを合図に開始される
ギムナシオンやパライストラで十箇月みっちり訓練された若者が一堂に会し 凝灰岩の切石で造られ渋い大摺鉢の偉観をもつ競技会で各々の技を競う
ヘルメスや名手ポリュデウケースの加護を受け少年のころから拳闘に素晴しい素質を顕したエルドレは 並み居るつわものを打ち倒し 四度目の覇を目前にして 溢れる野心に胸躍らせる
最後にして最大の呼び物 ついには王の後継者が決まるかも知れぬという期待を抱いて 聖地ラドルの老若男女は大理石で造られた観覧席から固唾(かたず)を呑んで見守る
決勝戦に勝ち残った相手は王の第一の忠臣ソロドネスであり その戦歴を物語るごとく 鼻が潰れ 耳が剥がれ 片目を失い 頑強な躯を持ち 上背や重量などは優にエルドレの倍以上もある豪傑である
歓声と拍手が湧き起こる
エルドレはセスタスのついた革皮を甲に巻きつけ闘いに挑む
ふうと息をついて出る陰性の中音
次第に獰猛な獅子のごとく吠え始め 巨躯をぶるっと揺すってソロドネスが突進する
エルドレは臆することなく体形斜めに構え 躍りかかる大男の脇腹にするりと辷り込み 左足にふわり重心を落とすと 左肩を内側に捻りつつ思い切りよく左腕を顔面狙って突きつける
人々の鈴生りの視線がソロドネスのその醜い顔に注がれる
忽然と起こる不思議な笑い
打たれた方はよろめきもせずにやりと唇を綻ばせ嘲るような陰性中音の笑いを洩らす
眉間のあたりがぴりぴり痙攣したかと思うと 躯を大きく右に回転させながらエルドレの腹に左拳でずしんと一発喰わせる
すかさず巖の如き右拳を顔に打ち下ろす
絶えず笑いを響かせながら分を盗み寸を奪い乱打する
ひゅうと鮮血が迸る
エルドレの頬が金属鋲の打擲によって裂けてしまうのだ
白い腕の美わしい娘たちの一団から衣裂くような悲鳴が飛ぶ
漆黒の守護者の長い鼻が波打ち白虹貫日のごとく鋭い牙が天を突く
汗と血潮に塗れ男たちの裸体は鈍重な光沢を帯び 乱れた呼吸の合間にぴくぴく引き攣る筋肉が殺気鬱々として異様に美わしい
観衆は息を呑む
腹の底に殷々と響く咆哮が激昂の前兆 あの静謐の一刻をもたらしている
まるで絶頂期の快楽を享受しようと
エルドレはソロドネスの一方的な攻勢に屈するかのようにじりじり爪先で後退るが 相手の躯が油断のあまりゆらりバランスを崩した隙を見てとると 間合を維持していた左腕をすすっと伸ばしロングフックを放ち すぐさま肘を直角に曲げ上体をくるりと捻りながら右拳で獰猛な単眼巨人のこめかみを殴りつける
どろりと赤い澱が零れる
相手は反撃に(ひる)み 慌てて拳を上向きに構え しゃくるようにしてエルドレの腹を抉ろうとする
接近戦が開始されラドルの人々は一斉に立ち上がる
興奮の坩堝に陥る
口角泡を飛ばし 足踏み鳴らし 両手を振り上げ 怒涛のごとく勇者の名を代わる代わるに喚く
ボウの変幻自在の叢が驚き中宇に舞い上がる
エルドレは左手でソロドネスのアッパーカットを払いのけ 顔面に迫るパンチを上体ぐいと反らして躱す
そうして相手の懐深く飛び込むと 腕よ貫けとばかり左ストレートを鳩尾(みぞおち)()り込ませ 途端にふっと浮いた咽喉元に渾身の右アッパーを炸裂させる
オルリー公が上気した眼を輝かせ儀礼用サーベルを鳴らして躍り出る
群衆も歓声をあげて観覧席から雪崩てくる
紅蓮に染まる放物状の帯が空中に架けられる
強烈な一撃は顎を無残にも打ち砕き ソロドネスの巨体を仰向けにゆっくりと宙に漂わせ 大きな地響きとともにボウの叢の中に沈める
意識を喪失させながらも このつわものは人差指を伸ばした腕を天に上げ敗北を認める
エルドレは 汗と血と泥に塗れた逞しい好敵手の躯の中心でおくびあげ 果実のように柔らかく弛緩した逸物に精一杯の優しい接吻を与える
王妃エレアは頬を薔薇色に染めてこの若い勇者に熱い眼指しを送るのである
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