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ii - 3 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月

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天幕を裁断する玲瓏な光がエルドレの微睡(まどろみ)を破る
俄に空は掻き曇り 凄じい稲妻が縦横無尽に走り廻る
暗黒の帳を裂き艫を掠めた青白い稲光の只中に 一糸纏わぬ 逞しい肢体も露わなアルゴナウテースの栽尾の姿が照らし出される
眩い閃電が甲板で緩やかに偏光し 口淫する綺麗な咽喉の曲線を映す
ごうという音響とともに迸る二叉に岐れた黄金の火箭が舳先に注ぎ 深い接吻のぶ厚い唇から滴る唾液を燦かす
その向う 闇に擁かれた行手を見ると 光の波に洗われた蒼白な島影がくっきり姿を現す
轟きわたる雷電は激しい嵐を湧出する
白帆は千々に引き裂かれ 荒々しい高波が船を叩き伏す
容赦なく降りしきる豪雨が甲板に溢れる
帆檣がみしみし不吉な叫びをあげると 天辺で水夫がもんどりうつ
自然の悪意に翻弄されて船から振り落とされる
大沈没寸前のガレー船よ
乗組員のほとんどが荒海に潔く身を任せようと我勝ちに宙に躍る
数十人の男の投身の姿勢よ
このまま海に呑まれてなるものかと エルドレは巻上機の赤錆びた歯車止めを外す
からから心棒が音をたてて回転し 深い海底に君臨するポセイドーンの胸めがけて錨が落下してゆく
おびただしい光の乱舞の紡ぎ出すありとある風景はいかなる誤植に匹敵するのだろう
運命の糸は世界を転変させる
強健な肉体を宿しながら 哀れにも海の藻屑に成り果てんと中宇に躍る武士(もののふ)たちは 様々の投身の姿勢のまま 蝋燭の炎のごとくぷっつりと掻き消える
亡霊は光の彼方に帰還する
我が主人公“物質の幻惑”は誰に夢みられているのだろう
エルドレを迎え入れる帰還の途とは
時を一にして 天を蔽い闇黒の海洋を専制支配していた雷雲はみるみる退き 一瞬のうちに水平線の彼方に没する
ヴォワイヤンにとって一瞬の眩暈こそ最高の至福である
おお いかなるカルマとその秘法が彼らを律するのか
暖かな陽光が充ち溢れ 波は静かに辷り 緑に囲繞されたおだやかな海洋が蘇る
エルドレは目前に迫る島に向おうと 滑らかな琥珀の海面に優雅秀麗な弧を描いて飛び込む
船首に金箔で記された“蒼白の勝利”という銘を見ながら
飛沫が虹を織り清涼な水が快い
蛸や烏賊や飛魚が鮮やかな抜手を切るエルドレの白い裸身に添って泳ぐが それ以上忖度することなく 潮の流れに従い離れてゆく
ムーサーの九人の女神なによりもエウテルペーの宝石箱を開けると 金属の表紙で綴じられた“霊魂の受胎”が発見される
外套と帽子を纏って灰色の町に消える
扁桃型の酔眼を瞬かせ交番の前で悪夢を吐き おもむろにズボンを脱ぐ
それから清晨の明るみに向ってマラソンを始める
夜にはまたまた深酒し肉離れだ
栴檀(せんだん)の香を薫じる口髭を撫で女児の華奢な膝に触れて屈み込むと 白亜紀の葉紋を宿した化石が手に入る
山奥の小さな泥沼で塩辛蜻蛉や鬼蜻蜒が尻尾を水面に叩きつける
瓢箪池でずぶ濡れになって愛した少女が歯切れのいい声でイシスとホルスの来歴を(そらん)じる
おお忘却を(こいねが)う神々の連祷
風籟のように他愛ないアグリッパよ
神父が聖地巡礼の旅からマントを持ち帰る
少年記者はバスに乗ってこの不審な男を尾行し 三番目の停留所を過ぎたあたりで額に虻の埒を頂戴する
薔薇の花を頭に咲かせ(ひかがみ)にもうひとふんばりさせようエルドレよ
海鞘(ほや)の筋膜体で北の楽園を生食する
(つばさ)沙蚕(ごかい)が発光すると内臓に毒をもって黄金時代は皺苦茶になる
怒鳴りつけると白眼を剥いて抜衣紋だ
ドアをばたんと閉めると もはや生命の片鱗すらも残っていない
机上の髑髏に接吻すると 惑星間の真の虚空を横切ることさえ可能である
進捗すべき詩藻に足を取られて諛言を呈するなど秒忽なことだ
洗濯女の狂った瞳孔を覗いて母親の背に隠れる
さし乳の女が乳石を献上すると取るに足らない痩削な老婆になる
殴りつけると半身瘡蓋を貰い翌日の水浴びは苦痛だ
雑草の生い茂るスタディオンで涸いた野犬の糞を蹴る
踊るつもりなら肉の毒素を取り除かなくては
釣るしんぼうを着て酒瓶片手に散歩しよう 満月の下で女に平手打ちを喰らうから
ヒステリックな罵声と一緒に突き出される包丁
おお海に臨めるオベリスク
階段の左右に大理石で彫られたAからZまでの巨大な文字
赤条々の艶聞なんか口づけに清涼水を含ませてさよならだ
沛然たる迅雨に打たれ乾坤は健全なアムブロシアを育む
リンネルの縁なし帽を冠るほっそりした美女と 濃紺の肌に吸いつく薄絹を着た美男子の和合する水の都 あの太陽と親しい叡智の王国は何処に匿されているのだろう
未練たらしい詮索など法界悋気である
審美的な考古学者が氷柱を抱くとすぐさま融けだし その流れを這い上がる蟇にひんむかれ悲惨な最期が訪れる
魁然として死の十全の保証を受けよ
おお国家の盥は足で一杯だ
黒い岩礁のように連なる海岸から突き出た岬の下に到達する
葡萄色のなだらかな海原に囲繞された美しく豊沃な島
九十の諸都市と最古の海軍の眠る土地よ
入江を中心に放射状に拡がる最大の町に至るには 獅子の彫刻が守護する城門を潜らねばならない
エルドレは皎々と燦く太陽と乾燥し透明な青空を眺めながら濡れた躯を休めると 屹立する岩山に挟まれ屈曲した渓谷へと向う
鬱蒼と生い茂る樹々が(たわ)わな枝を(しな)垂れて行手を阻む場所を通り抜け 赤褐色の岩肌の迫りくる狭隘な道が途切れると ぽっかり目の中に低いなだらかな丘が薄墨色の重なり合う建物の影を載せて飛び込んでくる
丘を囲む半ば壊れた城壁を過ぎ 広い埃っぽい道が拡がるその向うに 糸杉の慰安の木立ちに包まれた墓地が続く
遠征から帰還し祝宴の後に殺されたと伝えられる英雄たちは この静寂な眠りの園から追放され 海泡とともに消滅した亡霊たちと等しい宿業に魅入られ 何処を徨っているのだろう
微風が小さな旋風を織り出し軽々と朽葉を舞い上げる
歴史の呟きが侵入者を追いたてる
ゆるやかな起伏を登り詰めると 斜面一帯にオリーブや葡萄畑がむんむんと緑の息を吐く
道の尽きるあたりでは 爽風に針葉を翻し陽光の銀色の矢を射返す松の樹々が両側に並び その奥に高い主門が聳える
巨きな切石を丹念に積み上げた迫持(せりもち)送りの門の上から (たいがみを逆立て爛々たる眼光をもつ獅子の浮彫が 入城する者ことごとくを睨みつけている
だがエルドレは誰に出会うこともない
人影もその気配もなく森閑とした城市の中央に 十三メートルの高さに及ぶ大円堂ががらがらと鐘を鳴らしている
幻惑は幻惑を惹起するとはいえ 果たして三層オールのガレー船の出来事と逆の事態が進行しているのだろうか
だとすれば 道広く民を迎え 蟻塚のように栄え 黄金に富む都市は 素裸のエルドレを夢見ているのだ
大円堂の外壁には戦車に騎乗した戦士たちの狩猟する様子が描かれている
円堂の内壁には海洋文明最古のゴルティンの法典が繞らされ 内部の数々の部屋には 黄金のマスクや胸甲や岩水晶の頭飾りをつけた鍍金の王笏や黄金の槓杆に黒真珠を象嵌した見覚えのある宝剣や諸々の美麗な容器や装身具や飾り帯に数百枚の黄金小板やら黄金の匣などがぎっしり蔵われている
物質の栄光は死者の安置された地下深い奥津城から放たれる
グルニアの蛸壷に海洋民族の足が詰められる
凍石で作られた角坏には栄誉が盛られる
“キクラデス諸島とエーゲ海に面する本土のうちスニオン岬はアッティカの地から突きでている”と誌すギリシア周遊記の著者ならば 雷をも轟かすメアンダー文の罫に飾られた丸天井に“文明の源と未来は柩の中に突きでている”と書き記すだろう
エルドレは背中にひやりとしたものを覚えるとそそくさとこの宝庫を後にして その裏手で絢爛と咲き乱れる広い花園に赴く
大地母神ケレースやサテュロスの祝福を受け 花神フローラの戯れる苑
意を尽くし巧を凝らした未曾有の数の花壇が大自然の統一とともに豪華無類の饗宴を演出している
薔薇やヘリオトロープが甘い香りを漂わせ 石楠花(しゃくなげ)やデージーが桃色の花弁を小刻みに顫わせる
天帝の花といわれる瞿麦(なでしこ)が鳳仙花の中に混じって可憐な頬を覗かせる
ジギタリスや飛燕草に囲まれて乳白の百合が眩い
虹の如きアイリスの花びらが宙を舞う
その下を葡萄酒やミルクを湛えた清澄な細流が横たわり 月桂樹や橄欖の枝を洗って飛沫をあげる
孔雀が舞い降り 沐浴する清楚な白鳥と黄金の林檎を競い合う
季節外れの南天の実が浮かぶ
瑪瑙や角礫石などの素晴しい光をもつ小さなフィーレや置石が小川沿いに点々と並ぶ
黄色い蜂蜜を滴らせる樫や白い粉を吹いた扁桃の木蔭に泉が湧き その周りを囲んだ半円形のエクセドラもある
粗面岩で舗装された遊歩道の彎曲するあたりに 白赤緑黄の化粧煉瓦でできた尖塔が聳える
煙立つ湯と涼しい水の流れも清いと謳われたアルティスはミルトの叢林の向こうに拡がる
“聖なるアルカディア人の純正なる者”の奉納した神像を入口に備えたデルフォイや またフィディアスの破風彫像をもつオリンピアにも匹敵する神域
エルドレはその広袤とした景観を一望しながら 灰青色でところどころに錆色がかった断崖の方に向う
すでに庭園は尽き 左手に望める入江に白い帆を萎れさせた船が碇泊している
平坦な道をさらに進むと 右手の方に二万数千平方の丘が隆起している
エルドレは丘の斜面に不思議な形をした宮殿を認める
それは四つの大きな建物が屋根続きに相接し 増改築を含めて 時代の異なる幾つもの建物が重層しているかのごとき外観を呈している
エルドレは迂曲した道に従って丘の中腹に登り 宮殿の南側に至る
宮殿は紺碧の大海原を背景に 右側に緩やかな丘を(あし)らい 繊細華麗かつ複雑奇怪な姿を現す
周囲には簡単な小宮殿やロイヤル・ヴィラや高僧の邸が建てられている
エルドレはそのうちの一つ 宮殿に続いているカラヴァンセライに入る
壁面には大きな鏡が嵌め込まれ 中央には水晶を鏤めた雪花石膏の池が設けられている
粘土で作られた導管が丘の頂から清新な水を運ぶのである
エルドレは涼しい水を浴びる
なんという甘い(みそぎ)の液よ
鏡に裸体を映すと青味さえも帯びる
幅五メートルに及ぶ大階段が正面に伸びる
その両翼に下細の柱が頭上高く並ぶ
エルドレは階段を昇り切ると宮殿の広く長い廊下に至る
陽光は弱まり奥は一段と薄暗い
天鵞絨の紫色の絨緞の光沢が闇に呑まれるさらに向こうで ちらちらと妖しい光が舞う
通廊が中庭と西玄関に分かれる辺りで ひたひたひたと床を這う音がする
光が左の方に消えるのを認めると エルドレはなにものかに魅入られでもしたように陶酔の面持で後を追う
二股になったところから左側は下り階段になる
直角に旋回する階段の片側は壮大な木柱が明層を作っている
このとき 不思議に軽快な気分になる
あの清水の魔力に依るのだろうか
階下に降りると角坏を抱えた暗紅の肌をもつ廷臣たちが迫り来る
だが それは数千年もの間を壁の中で暮らした影なのだ
明るい光が差し込む
玄関から外にあの大円堂の聳える丘の起伏が見える
エルドレは憑かれたかのごとく 華やかに彩られ四階まで打ち抜かれた柱廊の階段に引き返す
吹き抜けになった柱列の間から小さな庭が覗く
二階の部屋をことごとく調べているうちに 入り組んだ廊下に惑わされ方向が解らなくなる
双斧の間などは三度も出入りしている
それで右手を壁につけて歩き ようやく階段に戻る
だがそれも最初のものかどうか定かではない
再び旋回する階段を昇り三階に達する
いやここは四階であろうか
そのときあのひたひたという気味の悪い音が明瞭に聞こえる
薄暗い廊下で迷わぬために右手を壁から離さない
人身牛頭のミノタウロスの棲む王宮ならば道順を記憶しておくのが肝要だから
様々の壁画を飾った部屋やポーチを順繰りに通り 曲がりくねった廻廊を辿る
途中幾つかの不規則な階段を昇り降りする
両扉を備えた大きな部屋に入ると あの不気味な音が途絶える
しんと静まりかえった広い室内の奥には背凭(もた)れの付いた石膏石の玉座が厳かに据えられ その背後に鉤爪を尖らせ翼を拡げて相対する二頭の金箔のグリュフォンが睨みつけている
エルドレはこの玉座の上に蒼白に燦く一対の黄金のサンダルが置かれているのに気づく
そのサンダルの甲当てには雲の模様と翼の模様が彫られている
いかなる力 いかなる神意なのだろう
何の前ぶれもなく このサンダルは玉座から飛び上がる そして狼狽するエルドレの傍を掠め 暗い通廊の中に妖しい光を放って消えてゆくのである
ひたひたひたという音を伴って
エルドレは生命を吹き込まれたサンダルの残す微かな光芒を頼りに追い駈ける
ダイダロスの建造した迷路はエルドレを奈落の淵に誘うだろう
屈曲した建物を我をも忘れて徘徊し ついに一切の光が射し込まない場所に到達するのである
上下左右前後方はことごとく意味をなさない
時間を眠らせるような黴の澱んだ臭い
ぼろぼろに崩れたかのような空気
あの奇怪な光が嘲るごとく点滅する
地底深く迷い込んだエルドレをこのアリアドネーの糸巻きは何処に導くというのか
寂黙の苛重の底で 一角獣やらキマイラやらゴルゴーンなどの恐ろしい化物が舌舐(したなめず)りしているに違いない
黄金のサンダルは地面に降りると闇の中を青白い光でぼんやりと照らす
あの冥府の入口に咲くといわれるネモフィラの斑点のある紫色の釣鐘
黒い根と乳白色の花とをもつモーリューの魔除けの匂いが漂う
ミュルラの木が不吉な枝を伸ばしている
艶かしい色をした罌粟が眠りの神ピュプノスを招いている
まさしくかつて太陽神が姿を顕現させたことのない秘境
エルドレはぞくぞくする
恐怖の囁きに唆されるとサンダルめがけて飛びかかる
期待が捉える空しい光
エルドレは暗闇に輝くサンダルを素足に履いてみる
躯がいっそう軽くなる
耳を澄ますと あの魂をひきずるような剣呑な音とは異なった優しい水音が闇の奥から聞こえる
エルドレは中宇を浮游しながら打ち寄せる水音を求めて進む
漆黒の洞窟に風が戦ぐ
徐々に潮の香りがする
向こうから光が射し込む
宮殿の北の玄関は彼処に違いない
洞窟は水分を帯び始め ガレー船の碇泊する入江は近い
エルドレは眩い光の彼方に飛び込もうとする
だが洞窟の向うに見える海は潮が引き 濡れた岩盤が露出しているのだ フネは何処へ消えたのだ
洞窟の縁を囲む暗褐色の岩が産み落とす円い光華の世界を見て眩暈する
おお 光の環の中枢で あの大鷲の短剣がおびただしい光輝を放つ
風化層のひときわ青い巌を突いて
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