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iii - 1 詩集「魔の満月」 詩篇 魔の満月

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頭脳から天球が生ずる
古びた血から大いなる四海と河川が生じる
そして塩辛い汗からは雨雲が生まれる
泥濘(ぬかるみ)の中を疾風のごとく駈け抜ける七頭の悍馬
神と龍の誉れを戴いた黒鹿毛の駿馬が敗れ去る
人間は宇宙に巣くう蚤だ
偸食の民の頭上に舞う紙吹雪
相手は俺だと言いざまナイフが奇静脈を破る
よしてお呉れよと三十路を越えた女の声
小僧奴と一喝する地廻り
友よ
兄弟
またしても邪魔をするか
時の器に旨酒を注げ
坊主に習った飲酒法で世界の涯まで肥大する
おお因果の正理を無視する幻惑
下駄を履かせて小鰭の鮨でも売らせたい
壁に吊られた死の舞踏の沁るような髑髏の頤
物質の胎内を巡る底知れぬ小径
地球は悪名高いお前の懐中時計だ
斧で天地を開く
五色の石を煉って箭を作る
木を穿って焔を生む
混沌は束の間に(うが)たれ死をもってて汝らを造物する
詩人は墨に塗れた手で女を愛す
心中に失敗して青春に悔なし
夜々同じ道を辿るのは結婚生活第一の苦行
公園に通じる坂から白楊の樹上に座す膿んだ満月を見る
血の味が罩められた光は闇夜と媾い 牙の生えた鏡が熱い息を吐く
四つの門歯と十二の臼歯をもつ獣の大移動
屁を()る美女たちよ
大量の海葱を用意しろ
佞奸(ねいかん)な奴腹の血球を溶かし 都市の睡りを守るのだ
(あなぐら)から蜉蝣(かげろう)のように頼りなげな若者がふわふわと浮かび上がる
爽やかな冷気を吸い込むと精気を取り戻す
白銀の野中に黄金のサンダルが眩い
エルドレは迷宮の地下深くで注がれた毒気をすっかり払い落とす
大きく欠伸をして躯中の関節から小気味よい音を響かせる
階段を駈け昇るように中宇を自在に闊歩する
肌色のコスティを結えた大鷲の短剣 あの緋の扉を守護する衛士から頂戴した宝剣を求めて
青い巌に深々と刺さっている剣を渾身の力を罩めて引き抜く
おお このとき眩暈はいかなる事態をもたらすのだろう
ナイフ捌きの巧みな男には特典が与えられる
アルカナの鍵は古来より武の器である
貴婦人たちが両手両足を括られた囚人の股間に貌を埋める
綺麗な咽喉がひくひく動く
熟した舌が快い
長い舌に巻かれて何本もの男根が聳り立つ
(きび)畑で刃物を縦横無尽に揮うと寸秒の間をおいて植物が落下する
刑を執行するナイフ使いは気取った仕種で技を開陳する
よく研磨された業物の餌食となって茎が辷り落ちる
男は女どもの羨望を一身に浴びるのである
エルドレはハンプトン宮の出口 いや海洋への入口が凄じい土砂崩れとともに塞されたのを知る
剣が鍵であるならば 扉だけではなく海の彼方も事件簿から抹消されているに違いない
物質の記憶は時とともにある
エルドレはコスティを用いて黄金の剣を佩すると大空へ舞い上がる
明るく澄んだ青い空
闇より出しサンダルの魔力はエルドレを高空へ嚮導する代償に躯の色素を脱き取ってゆく
蒼白な半透明の皮膚からおもむろに骨格と筋繊維が現れる
おびただしい疲労が押し寄せる
六つの支脈に伸びる山巒(さんらん)の裾野までをも見霽(はるか)しながら エルドレは眩暈する
ああエレーア
我が愛しの妹よ
幼気(いたいけ)盛りのエレアはあの時に王妃にしてラドル最高の巫女になることを定められた
“謳え聖なる頌歌を 選ばれたる者よ 万物の源と終は結ばれる 愛でよ母なる(かぐろ)き生命を 選ばれたる者よ 汝の始元を識り我らと媾うのだ 穢れなき今こそ”
聖地ラドルの大神殿の深窓
奥津城のような時じくの部屋に祀られた聖言
何という不吉な呪詛よ
少年のエルドレは妹を連れ 夜を友として神殿に潜入する
王国の中枢に匿された秘密に魅かれ
通り道の至る所に黄燐製剤やシリロシッドが仕掛けられている
オランダ人の船長が僅か五秒間で少女に滅多突きされる
贋札作りで千里の彼方にいる奴を身代りにする
罠は衍文のごとく闖入者には苛烈である
警戒堅固な館を影と隙を味方に探訪するのはたまらなく幸福な一時である
少年は衛士の欠伸に合わせて門扉の蔭に躍り込む
巡回する跫音に歩調を揃えて入り組んだ廻廊を進む
蝋燭を継ぎ足そうとしてできた老僧の長い影に紛れて拝殿を横切る
聖地ラドルの王であるオルリー公のガウンの下にすら潜り込んだのである
少年の興奮は如何許りであろう
欣喜雀躍しながら冒険は進められる
幼い妹はいつの間にか姿を消す
遊び疲れて神殿を出た頃には妹など忘却の藻屑だ
妹なぞ最初からいなかったのである
エルドレが成人しボウの茵の中で想起する日までは
兄の後を必死で追い駈けていた少女もいささか退屈気味だ
ふらふら徘徊しながらボウの叢が奏でる祭りの旋律を口遊む
哀婉な調べは建物全体に共鳴してゆく
透き通るような清楚なソプラノ
その歌声に和するような別の旋律が聴こえる
甲高い動物の鳴き声である
ぞくぞくする艶かしい響き
何というポリフォニー
幼気な少女はその不思議な魅惑に誘われる
とうとう音の発する所に辿り着く
大きな部屋の中に真っ黒な象が後ろ向きに横たわっている
尻から燦く液体を滴らせ
胸ときめかすような甘美な匂いが充溢する
いかなる没薬の効果であろう
少女は歩み寄ると象の尻に貌を埋め その柔らかな中心に接吻する
白百合に頬寄せるかのごとく
恍惚の媚態を満面に湛え 母なる象の双眸はとろけそうだ
両性具有の美神の像の前で拝跪していたラドルの王は その神秘なる箇所が輪廻を示しているのに気づくと 聖言を想起し 長いガウンを靡かせ周章(あわて)て象の部屋に赴く
おおエレーア
迷子は神々の申し子である
白い腕の美わしき乙女に成長するまで少女は神々の館に封ぜられる
時の中に記憶が蔵われると物質はさらに耀きを増す
酔漢はパンツ一枚で春宵の海原に飛び込む
女が通るとやたらウインクする
紋は菊花ではなく葵であった
だからといって緑茶をひっきりなしに啜るべきではない
躯の深さは底無しだ
小色の一つも稼いでおこう
磁石が鉄を引くのは自然の感応ではなく肉体的特性である
航海日誌が紛失する
虎の首をもち龍の足をもち蛇の眉と蛟竜の眼をもつ母性よ
宇宙の卵を喰ってしまえ
生樹の実は千年の生命を賦されているが毒蛇の一舐で死樹の実となる
腹下しの妙薬には鸚鵡の首が最適だ
エルドレの朦朧状態も聖なる肌サドラの効用によって完治する
何という活力の源であろう
とはいえエルドレの躯は陽炎のように透明になり真綿のごとく軽くなっている
頭の芯に力を罩めて眼を開こう エルドレよ
星型をした下界の中央に円形の広野がある
骸骨の踊りと称ばれる場所は白雪の乱反射で赫奕としている
まさに銀で箔された一枚の紙
エルドレの注意を喚起するのは青い巌の右手の谷底に蠢く厖大な数の黒い小動物である
エルドレは羽毛のようにひらひらと舞い降りると彼らの上に仰臥する
鼠の群は烏夜玉(ぬばたま)の闇を垣間見させる狭い洞窟へとエルドレを運んでゆく
食欲と性欲だけが人生最大の目的である(うから)
聴覚と味覚のみに鋭敏な感覚を有する輩
黒やコルク色や薄茶や代赭色の尻尾を生やした悪意の生き物
鼠どもは最初エルドレの躯を舐め回していたが その肌がとても好みにそぐわぬと悟って齧ることもない
エルドレを重荷とも感じないで背に乗せて進む
だいたいにして鈍なのである
鼠どものトンネルは細く長い
エルドレの躯はその径に応じて伸縮する
消化器の蠕動のように
暗闇に馴れて通路の壁を見回すと 怪異な光をほとんどその内部から発する幾多の金属を認めることができる
磁鉄鉱と黄鉄鉱
柘榴石と風信子石
硫黄と珊瑚
碧石とゴム脂
縞瑪瑙と蜜
密陀僧とクラディアノン
硝子と白い衍文
おお七つの星と七つの塩よ
エルドレは 穴に沿って一条の帯となっている部分が帯緑色の軟らかな含水珪酸マグネシウムの鉱物でできているのを知る
山奥の濛気の烟る都市の一角で物産展示即売会が催される
微光に包まれた公民館の周囲に見世物小屋が並んでいる
老紳士が若い女を連れてオペラグラスを覗いている
貝細工の人形を手に取る太った医者
小学生の一団が曲芸の天幕の中に消える
公民館の中では弁髪の山師が怪し気な支那語を織り混ぜ下手物を売る
垂涎の的となっているのはこの高価な珍味である
ありとある果汁を沁み込ませた熊の掌
百の肉汁を呑み込んだ豹の胎
笹の実の香りを発する虎の膝
いかな水とも馴染む脂に充たされた象の鼻
歯触りの極ともいうべき鹿の腱と素晴しい滋味に富むその陰茎
バターよりも柔らかで芳醇な駱駝の瘤
深山の霊気を宿した猿の頭そっくりの茸
七つの材料を種にした豪華な料理で片田舎の町は賑わう
食事に金と手間を惜しむ奴は肉の恐さを知らぬ下司だ
下戸と下司には用はない
年増盛りが小皺を作って肌触りがいいのよと滑石でできた灰皿を買って呉れる
ぬけてはいけぬが妙にごつごつした外套を見立てた少女もいる
窖は湿気を帯び地面がぬめるように軟らかくなる
呑み込まれるように地下のさらに底へと沈んでゆく
噎せるような澱んだ古い風の溜り場
ぽっかり開いた墓地の記念写真よ
未熟児網膜症の患者が電気鋸で殺害される
絵端書の片隅には唇の跡が残される
坤軸は広い空洞になっていて漆黒の空さえ宿る
魂を毒するような重たい濛気が篭っている
数万の鼠群はひんやり冷たい地面にエルドレを残すと 泥水のように何処かへ四散してゆく
エルドレは横たわったまま地下の空を眺める
緩やかに彎曲する壁が繞らされている
天を摩す岩肌に貼り付くように巨大な像が左右上下に涯しなく 幾百体と彫られている
エルドレの躯の数十倍に匹敵する貌を見ると そのどれもが半眼微笑の不気味な表情でエルドレを見ている
描かれた薄地の衣紋は生命を帯びたように巻きつき 巨像の量塊感をより強調している
彫像は多くが胡坐の姿勢で臍の辺りで印契を結ぶ
彫り抜かれた背後の壁には曼陀羅や古代の人々の行列が繊細秀麗な線描のように平浮彫になっている
これらはいかなる粉本なのだろう
エルドレを見下ろす巨像は視界の途切れる辺りで闇に没する
天まで続く岩壁に重なる異様な貌の群
鈴生りの仮面よ
エルドレは天の中枢を仰ぐ
遠い闇の彼方に名状し難い不気味な月が静脈血のような光を吐いている
エルドレはその天体に我が故郷ラドルの死の姿を見る
霧さえ含むような満月の陰惨な光が巨像たちの貌を妖しく照らす
物質の内部を許多(あまた)の観客の貌が掠める
不幸の因は早急に摘み採らねばならない
だが聖言に違背するならば不幸の骨髄に達するであろう
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