緑字斎一家、アメリカ大陸横断記 7月26日



 7月26日

 モニュメント・ヴァレー。どうしてこれが自然の造形なのか。小生は、まず、そのことにショックを受けた。
 Kayentaから24マイルの直線道路を行くと、壮絶な岩の、垂直にただ切り立つばかりの岩山が周りと完全に断ち切られた形で存在する。点在するという寂しげな存在の形ではない。明確に砂漠の中に孤絶した雄姿を聳え立たせる。
 モニュメント・ヴァレーはさらにその奥にある。ヴィジター・センターの左側の入口から、我が愛しのフォード・トーラス・フルサイズ・4ドアは、砂漠の細かな砂のオフロードに轍を踏み入れる。ほぼ1時間ほどのモニュメント巡りのドライブ・コースだ。
 岩が、なぜ、このように最後の崩壊の形で残り続けるのか。またその崩壊の形が、平らなてっぺんと切り立つ側面にごろごろした直径10メートルはある岩を、まるで自然というものの不均衡の本質を表わすごとく空中にとどまらせているのはなぜなのか。そして、その岩は薄い層になった模様を、いかにも脆い自らの出自を暗示するように、この熱く、乾燥した空気に晒けだしている。
 しかし、この巌はグランド・キャニオンがゆきつく未来の形といわれている。つまり、永遠の後の永遠なのだ。この不思議な巌の集落は堅固で傲岸な歴史というものの姿なのだ。もちろん、それは人間の歴史とは異なる、超越的な地球そのものにかかわる歴史を指すのである。
 なぜ、我々はこの巌にこれほどまでに感激するのか。おそらくそこには、どのような説明でも絶対に満足できない、とんでもない超越性があるからに違いない。
 地質学的な説明は、ここではもはや何らの感受性をも呼び起こす力はない。我々はもっと非現実的な、創造的な世界にいきなり連れ込まれる。ダリの空間といえば、もっと分かりやすいかも知れない。
 確かに、ダリの超現実空間のエネルギーに充ちた確かな想像力と、ものを創り出す夢の意志といったものに、それはかなり近親的である。
 しかし、ここにはもっと重厚な、存在自体の堅固さがある。そして、それは我々を危うくはするが、巌の存在を危うくすることはない。もっと、荘厳な、それゆえに孤独と悲哀と絶対の寂しさと、それゆえの厳しさを、それ自体で表わすという意志さえ拒絶して聳えているのだ。
 それは屹立することの意志だ。風化することの意志だ。
 このことは、もはや自然の造形などという、世界の全体、宇宙の全体に脳天気に目をつぶって無条件に感嘆している客観主義者には分からないことかも知れない。
 この造形、この屹立の形には意志がある。
 それほどまでに、この地球の未来と過去の姿を、この巌の群は何の意図もなく存在させて、たまらなく我々の存在自体を貫くのだ。
 この意志とは、意味を与えることを拒絶する、そのもの自体ということである。
 砂の粒子の連なる平原に突如、この自然を越えたに違いない神々の、いや地球を造形した神族のモニュメントが並ぶ。インディアンのみが、その裾野で世界の終末を見定める役目を与えられている。
 これはもう、世界が終わっていることだけを表わす、孤独で力強い、宇宙の意志なのだ。
 もう、実は20億年前から地球の始まりなどはなかったのかも知れない。
 この、最も新しい大陸で、小生は皮肉にも人類が本当に何ものでもないという疑念をまたしても確かめることになるのだった。

 この夜はUS-160のCortezのモーテルに泊まる。
 Compu-Serveに繋ぐために悪戦苦闘し、ようやく成功。しかし、電話料金がばかにならないくらいの額に膨れた。


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