祝祭という詩篇――加藤郁乎頌
祝祭の季節が移ろっていったためか、生きかつ死ぬでもない半ちくで妙ちきりんな世の中と相成った。そしてその頃から、時代の悪い風が吹き始めた。街の中には夜であるべきときですら何やら人工的な光が鉱物じみた粉片となって漂い、宙宇にはまた、罅割れた無数の透明な球が浮かんではゆらめき、ぱちんと音たてて弾けていた。石鹸玉のような
シャムペイン伯より一荷、反時代の矜り
出会ひとは今を命日とする塒だらうか
“EKTOPLASMA”の句が凛として清々しいのは、何よりこの句の姿勢が超然としてこの地上を跨ぎ越えているからである。
ところで当時、そのことと関連してだったか、純粋思考ということを考えていた。それは永続的な否定思考の向うに生み出される無限の増殖性ということである。――物質という存在が存在の一形式にすぎず、その形式を充たすべく凝縮された時間によって造形されたにすぎぬものならば、地球とその周辺はいかな実質でもありえない。換言するに、瑣末な発明品でしかない時間の法制化におもねて、失われた宇宙領を奪回せんと謀る、ここの衰えた神によって鎖された実験場にすぎぬというわけだ。だが、ここには時間が存在せりという与件だけを応分の神聖儀礼にしたとしても、多神的な厖大な数の宇宙領がすでにここでここの作法に従って交錯している。思考すべき存在はなべてそれぞれの宇宙領の露頭であり、ここの側から見ればそれぞれの宇宙の代表的存在であり、地球的実験への介入であるやも知れぬ。だから、地上的存在としての神聖儀礼、つまり肉から解放されれば、それぞれの宇宙領へ帰還することになるのだが、そのときいささか混濁が生ずるようである。思考とは無限の否定という姿勢である。混濁とは、帰属せるとか収斂さることに対する直観的な戸惑いを惹き起こす思考に他ならない。純粋思考とはこれを突き抜けることによって到達できるものであり、それ自体思考的実体であり、ここで改めて己れの帰属すべき宇宙領とその全体性をさえ否定しつづけ、ついにはまったき別箇の宇宙として自らを生み出していくのである。純粋思考とは窮極の次元の存在であり、宇宙的次元ではその根本原因であり、この非和解的、永遠の否定運動が存在と宇宙の無限の自己増殖を誘きだすわけだ。――