デリュージョン・ストリート 01 1 (九段の坂を登っていた)

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 九段の坂を登っていた。テルミヌスが宿っているあたりにさしかかり、これからこの坂を登りきり、辞典を出している会社へ赴こうとしていた。その先に鰻屋がある。用事を終えた後は、いつもと同じように迂廻し、店の職人たちに混じって黙々と酒を呑みながら鰻を喰うことになるのだが、そのことを考えながら右手にある大鳥居を見ていた。
「首身離兮心不懲」(首心離るとも心懲りず)という詩句がある。数年前、千鳥ヶ淵の咲き誇る桜の樹の下で、一緒にいた詩人が、英霊ありとせばあの大鳥居の向うの杜から出できて満開の花の中を逍遥している頃なり、と呟いた。この春には風に吹かれる花びらの中で、盛り切りの酒を長い時間かけて呑みながら、ひとり夕陽の色に染められる濠の水を眺めていた。
 初夏の日差しを浴びた鳥居の上に、あの人が腰かけていた。足をとどめて濠の方に視線を落とし緑の深い濁った水の色を見やっていると、紙包みのような、恐らくビニールか何かで蔽いロープで括ってあるのだろう、石垣の傍に浮かんで動かないものがあった。初めのうち、わけもなくそれは死体であると納得していた。「身既死兮神以霊/子魂魄兮為鬼雄」(身既に死すれども神以て霊に/子の魂魄こんぱく鬼雄となる)、あの人の顔が空に大きく広がって、別格官幣社の境内を包み込むように霞んで見えた。
 書類を小脇に抱えながらパイプに火を点けると、向うから女子学生が数人、声高に喋りながら近づいてきた。性的な会話のはずであったが、渋滞した車のエンジン音やクラクションの音に混じって何やら雑種の鳥のさざめきに似ていた。
 坂のある街は美しいのだが、新品のビルディングのある景色はいかにも粗末な気がした。それでも通りを左に折れると、ところどころ古い家並を残しただらだらの坂が麹町へと通じている。とある一軒の家の門前に、塀が崩れて怪我人が出ても関知しない旨の立札があった。
 Janis JoplinのSummer Timeが印象深いのだが、小さな嵐のように胸の中に涌いたのはMove Overだった。死体の梱包が浮かんでいると思ったのは、そのあたりがいかにもそのような場所に相応しいと考えていたからであり、このあたりをそぞろ歩くと、京都の円山公園の巨大な夜桜とはまた異なった満開の桜の不気味さを想い起こすのだった。
 すでに逝った詩人は存在は哀愁であると考えていたし、スペインに住んでいたある作家は男の悲哀についての小説を発表していた。いまはもうたれも見えないけれど、夏が去り、秋が訪い、年毎の季節が経巡れば、その深まりの中で風は冷たく、寒そうに唇を噛む人々の足の動きだけが、忙しげにいつまでもつづくのを見るのだろう。

(初出 詩誌『緑字生ズ』創刊号、1983.7刊)