かぎりのないはじまり――土方巽をかさねて
あの人が見ておきたかったものとは何か。
それは、臨終させるといった光そのものではないのか。光の後につづくものではない、光そのものの始源。つまり存在という、あらゆるものを払拭し、ただそのものでしかないという根源。形はいい、声もいい、強さもいい。ただ眠ること、ただ眠りながら戦うこと。それが恒常的に存在の始まりなのだから。
物質で何ができたって、ただそれだけのことだ。神秘が現れたってただそれだけのことだ。次元が違うんだ、永遠という奴は。おお、永劫の戦闘。誕生だけの無限。
福原哲郎の踊りにはそれがある。だからこそ、肉に素直なのだ。心を通して存在を慈しむのだ。足が踊る。一流の舞踊手はまず足で踊る。刃物のような曲線を歩く。足は埋もれてゆくためにも、飛び立つためにもある。もうそれはどちらでもいいことなのだ。それからその手、その腕。屈曲するときは光をいとおしみ、きりきりと伸びるときは光を手繰り、生み落とす。福原は動かない。もう踊るということは地上的な動と静とも無縁になってしまっている。もうつながる必要のない、断乎たる佇立、魂そのものの現前。
あの人がつなぎとめたかったのはそのことなのではないか。だが、それはつなぎとめられぬからこそ深い哀愁の色あいを保ちつづける。あの、蒼白な自由。そしてそれは光を帯びる。光が発揮される。光は、物質は、精神は、いつでもどうとでもなってしまうものだ。たいしたことではないのかもしれない、この宇宙と同じように。
このようなことは非現実を現実にかかわらせることの現実的な突出であるが、心が肉の世界につながるものであれば、これもまたそれだけのことだ。問題は自ら誕生できるかどうかということであるのかもしれない。創造力と戦意が思考という卵の滋養であるように。
(初出 福原哲郎舞踏会「内観が外の山I」パンフレット、1988.1)