妄想宣言
我らの時代はあまりに遠くへ押しやられてしまっている。
我らの時代は永遠に来ぬのではないかという直立的な諦観から始めるべきではないのか。
時代そのものを断ち切ったときこそ我らは我らの愛するものの側についたというべきではないのか。
それはある種の狂気の産物、妄想の全体に相渉ることになるのではないか。
少なくとも近しい至玉は逝ってしまっている。
我らは百年と千年の計をもって、つまりは歴史の時間と肉体を完膚なきまでに我らと切り離した場所から我らの結託すべき詩という全体に結びつくべきではないのか。
もうすべてを無視してもかまわないのではないか。
もともと我らは我らの方法においてしか、詩を、文化を愛することのできぬ場所にいたのである。
我らが書くことの現実は、それこそ現実と呼ぶことを拒絶する高みと、おおそれこそ妄想の高みにしか存在せぬものであろう。
軟弱な土壌は壊滅するであろう。
世界は軟弱な土壌そのものである。
我らの現実はそれこそあまりに空想的な、世のすべてから忌み嫌われる際限のない空虚にある。
君らとは無関係であると一言いって、我らは我らの唯一なしうる仕事に精を出せばよい。
よしや、それが数億年の先であろうと、我らは尻を割らぬ覚悟だけで、死は死ぬことだけであるような、純粋な妄想の宇宙に飛び出してゆけばよい。
我らは絶対零度と絶対の燃焼を唯一可能にできるものである。
文化というものは何をなしているかということでしかない。
人は死に、人は生れ、星の屑にも満たないただの瓦礫にすぎない。
また文化とはいわゆる存在証明でもない。
ただ、あることの覚悟にすぎない。
それは証明もされない、それは何ものかの完成でもない、それは己れを極限に合わせることである。
それが何ものかであるとすれば、どれだけの極限を見やっているか、そのことによってその不合理を相手にどれだけ喧嘩ができるかにかかるという、己れだけの問題であろう。
すでに世界はない。
すでに時代はない。
すでに永遠に未来は、よくいわれるような形ではありえない。
我らは宣言すべきか。
いますべてとは無縁である。
無縁でないものこそ存在しない、と。
我らは、書くという、何ものとも無縁で、無意味で、無価値で、ただかくあらざるしかありえぬという方法性だけで己れを律するという、覚悟だけをもつものである、と。
(初出 詩誌『緑字生ズ』第2号、1983.12刊)