擬宇宙論:4891: 現実について

現実について

「現実」ということばは、どうも卑近な絶対性の手垢にまみれているようで、あえてこのことばを遠ざける必要があるようだ。
アインシュタインが重力は時空の歪みから生まれるとしたのは百年前からのことであり、時空の歪みは宇宙的現実としてすでにポピュラーな「現実」の姿なのである。
このとき、ニュートン(世界)的現実はアインシュタイン的現実の出現で「日常」世界的現実へと変貌する。アインシュタイン的現実が本質的で包括的であるとすれば、それまでのニュートン的現実は世界像の一部の「日常世界」という位置づけとなる。
この「日常世界」とは「視座」のレベル(見方、イメージ)であり、マクロ宇宙の「日常レベル」を指している。
では、包括的で、本質的な現実とは何であるか。それは時空の歪みの世界、さらには不確定性理論を持つ量子論的世界をいうべきである。また、近年では多次元論を解き明かす超ひも理論についてもそういわれるべきである。
「現実」は百年前のニュートン的現実ではない。
それはすでに「現実」というにはあまりに物質からほど遠く、限定的で妄想的な、単なる思い入れのレベルに落とし込められており、それらを根拠にするあらゆる視点はなんら絶対性を持たないのである。
「現実」ということばを引き合いに出して事象を論ずるべきではない。それらは本質的な「現実」を見据えているのでない限り、DNA世界の「日常性」にすぎないからである。
日常は、人間の身体的レベルに応じた認識空間に過ぎない。ここは本質を論ずべき場所ではなく、狭隘な日常生活という擬-幻想空間なのである。
このことから、これまでの「現実」ということばを絶対的で無謬の旗印として用いることは遠ざけて、単なる「個的日常」「日常マクロ」ということばに置き換えて用いるのが適当だと思われる。

2007/02/23