擬宇宙論:48970: 池田龍雄氏への書簡1

池田龍雄氏への書簡1

 前略

先日はわざわざお越しいただきありがとうございます。
また、片づけを手伝わせるなど失礼いたしました。

喫茶店での話はとても楽しかったです。多次元論やひも理論をまともに話せる美術家にはなかなかお目にかかれないので、いささかストレスも解消できたしだいです。
さて、お礼かたがた、「思考を物質として考える」ということについて補足してみます。

人間存在の単位(かたまり)としての身体は統制機構であり、これは肉体と意識を統制している。
この身体というレベルは、包含-被包含の関係でいうと、包含することでこの構造体を統御している。「抑圧」と言い換えることもできる。
身体の下層にある肉体と意識はそれぞれ複数の単位あるいは部位を階層的、並列的にもっており、それらはそれぞれ独自のありようをしており、身体の管理機構の内部で上位の階層から抑圧されているわけで、つねにその状態において重層的に自由を奪われている(私の原理的アナーキズム発想ですが、このことからも、「身体」ということばの持つ官僚的な臭いが好きになれません)。
このようにして、肉体は、細胞(異性物の合成物でもある)、さらにDNAなどの下層にひたすら下り続け、意識は多重化、下意識などへと深化し続ける(生命-生物系構造体)。
さて、ここで、肉体や意識はそれぞれの下位の単位ごとに独自存在としての「かたまり」でもあるのだが、人間という「かたまり」のレベルでは身体に帰属し、身体が消滅するとそれ自体も失われることになる。閉じ込められた生命系のかたまりは、人間レベルでは身体の機能という属性を与えられているわけだ。
「思考」の話に転じると、まず、脳という身体部位が消滅すると「意識」という身体機能は失われる、というところがミソである。「意識」はそもそも、特に脳味噌における化学反応の発展的機能として、生命系の知的機能の累積概念として考えられる。
ここで、「思考」は意識によって生成された結果と考えてみる。「思考する」という動詞は意識の動作と「思考」という名詞形との中間にあるような気もするが、ここではとりあえず触れない。