[資料] 戒厳令下の北京を訪ねて【上海篇】[03](直江屋緑字斎)

戒厳令下の北京を訪ねて【上海篇】[03]

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 1989年6月21日
 中国民航CA924便は成田を13:50に発ち、上海に向かった。
 ビザを取得した時点の状況が絡み、初めは上海に入ることになっている。

 数名の日本人ビジネスマンがいるだけで、あとは帰国する中国人、それにしても三分の一もシートが埋まっていただろうか。もちろん、私の席のとなりにも人はいない。
 私はリュックを座席の下に押し込み、スニーカーの紐をゆるめた。黒いジーンズに黒い半袖のコットンシャツ、今度の旅は最後まで黒ずくめでいよう、そう私は決めていた。感傷にすぎるかも知れない。しかし、それは私のできる心の中での抗議の形なのである。
 中国語はもちろん知っているわけではなく、ガイドブックを読んだだけのにわか仕立ての知識で、どれだけのことを見ることができるかこころもとないかぎりだが、私は感覚というものはもっと確かなものだと信じている。ときには過剰に感得したり、大事なところを見過ごしたり、もちろんそのようなことはあるだろう。しかし、感性というのは、知らず知らずに心に入り込んだものから深く思考を促すということがある。これまでもさまざまの場所でそのような経験をしている。そして、感覚にだけ頼らざるをえないならばなおさらその感覚について深い思考が必要になる。さらに、次の体験がその思考に形をつける。おそらくこれが獲得感というやつなのだろう。これがある限り、おそらく私は旅することをやめないだろう。
 この旅を実現するために、無理をしていくつかの仕事を片づけ、役には立たないと思いながらも中国語の勉強の真似事、体力をつけるための運動、その他さまざまの雑用を短期日のうちにこなしたため、少々疲労気味だった。そのため、わずか三時間ほどのフライトの間中、うとうと、居眠りばかりしていた。
 上海――、人口1400万の中国第一の産業都市。揚子江の河口にある、開放政策のモデルともいえるこの大都市の市長・江沢民は6月5日の新華社電によると、首都・北京の「反革命暴乱」を鎮圧したことを擁護する電報を早々と中国共産党中央、国務院、中央軍事委員会に送っていた。彼は後日、鄧小平の後継者として指名されるのだが、政治的なハードラインとは異なるにしても強圧的な処断を下すことで知られている。だから、6日夜の光新路での列車焼き打ち事件で逮捕された労働者に対する処罰はかなり厳しいものになることが予想されていた。
 この事件は、天安門での虐殺に抗議して、列車の運行を阻止しようとレールの上に横たわっていた市民、学生に北京発上海行きの旅客列車が突っ込み、8人が死亡、三十数人が負傷したことにに対し、市民が怒って警察のオートバイを燃やしたが、これが列車に燃え移り、全車両が燃えたというものである。上海市の公安機関は労働者10人を逮捕している(6月10日段階)。

 CAAC(Civil Aviation Administration of Chaina 中国民航)機が上海虹橋機場に向けて高度を下げ始めた。荒っぽい操縦で、ぐんぐん高度を下げる。白い雲が流れるその下に長江の河口が広がり、黄埔江と呉淞江が運河のようにぶつかりあい、そこに上海市の中心がある。3時間と少し、日本からほんの僅かのところにこの人口稠密の、開放のシンボルともいえる大都市がある。
 殺風景な飛行場周辺の景色が斜めに迫り、がたがたに見える滑走路にあっという間にランディングすると、そこは確かに12億の人間の住む中華人民共和国の大地なのだった。

(c)1989, Akira Kamita