連載【第043回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: struggles 2

 struggles 2
 しかし、なぜ、彼らはこの惑星を超えることができないのだろう。あるいは超える能力に欠けているのだろうか。それが生物というものの限界構造なのかもしれない。外宇宙に飛び出せば、超高温と超低温のケルビンの熱温度の世界にさらされるだろうし、平坦かつ永遠に存在する時間と空間の、普遍的であることによって何もないというような場所に生物が棲息なぞできるはずがないからだ。DNA生命システムは自らを産生しては自らを食し、蛸の足を食らうように共食いしながら蛸壺に落ち込んでいく生命体だ。自分の内部に落ち込んでエネルギーを費消し、自分を失ってしまう生命系に、いったいどのようなエネルギーをどのように補給できるというのだろうか。ましてや、時間と空間は、物質が移動することによってその存在を表すことのできる測定値なのだから、絶対零度に向けて冷却している宇宙で、あるゆる物質の移動が停止すれば、時間と空間は存在なぞできない。
 それでも、そのDNAシステムの及ぼす範囲は地上のあらゆる生命を蔽っている。いや、次のようにもいえる。彼らに蔽われている地上の生命の相が貧弱なのではないか。大と小(宇宙論と量子論)を離れて、あまりにも中間的で日常的過ぎるからだ。物質のサイズにしても、組み合わせのサイズにしても、現象サイズにしても。まるで、触れることのできない幽鬼のような無間地獄。私は、DNA生命系と膨張する宇宙との関係を推察しているつもりなのだ。生命系という皮膜の層とその上位に広がる宇宙の層について。

 たしかに一方からは、生命ということばに騙されるな、という囁きが聞こえる。また他方からは、肉体から魂がいなくなれば肉体は安らぐ、という声も上がってくる。魂は不浄なのだ、生命ということばの補完物、抑圧を隠蔽する救済言語。生命は連鎖だが、だからといって個々の生命にとってそれでいいわけではない。そこにはとぎれた哀しみがある。個々の生命もまた孤立して存在しているのだから。存在は哀しみ。哀しみが存在の本質なのではないか。囚われて、餌食にされる運命においてをや。(つづく)