ドキュメント風に、楽屋裏の表情などから入る。形式的で胡散臭い舞台裏だ。作り物の匂いが芬々とする。偽監督や演出家、衣装デザイナーたちの話しっぷりに肉体や魂の汗が感じられない。ダンサーたちにしても、練習風景では踊りの外側の部分をなぞり、見せることばかりに気をいかせている。
画面は踊りそのものの場に移行する。ここでもまた、モダンバレエ、モダンダンスの空疎な表現だけで、とくに群舞やヘロデ王や聖ヨハネの踊りには失笑する。マネキンのようにくるくる回るヨハネ、子供だましの銀盆の首、ヘロデ王のこけおどしの杖の威嚇、光と衣装のアンサンブルは色見本帳をめくっているにすぎない。
それでも、名手アイーダ・ゴメスのソロで踊る二つのダンスはたしかにフラメンコであって、見るべきものがある。暗い情熱を沈潜させて、鬼気迫る熱情のたぎりこそがタンゴの神髄であり、アイーダのヘロデ王に献ずる踊りにはそれがあった。
それに比して、バレエ自体や舞台装置、衣装など、また構成、バレエ劇などは、見せかけばかりで、深く肉体の底にまでもぐりこみ、そこから発現して肉体に帯びる魂の光というものがないのだ。もちろん、アイーダ自身のバレエも舞台的にはさまになっていないし、映画なのだからそういっても詮がないと。そんなこともけっしてないけれど。
監督カルロス・サウラのなした仕事とは何なのか。映画で、舞台の裏表のただの感触を描くだけで、いささかも舞台を超える作品の強さを獲得できていない。映画と舞踏との激突する、鋭い修羅場に迫っていないのだ。
それにしても、天才アイーダという触れ込みのわりに、アントニオ・ガルデスを相手に踊っていたというわりには、アイーダ・ゴメスの舞踏のすごさが伝わらない。やけにたくましい背中だったり、体が太かったりして、繊細な強靭さが出てこないのだ。踊り込みが足りない。才能と経験だけで踊り、厳しい鍛錬がない。アップにしたときの容色の衰えのことはふれようもないが。
齢をふりても、ダンサーはそこに舞台があれば、蝋燭一本、裸電球一個の前でもほんとうの踊りができるものなのにと、嘆息ばかりがして。