[資料] 天安門事件: 内側から見た恐怖政治[01] (佐丸寛人)

「佐丸さん、今日こそ来るべきだったんですよ」
「しかし、これで中華人民共和国も大日本帝国と同じになってしまったね」
「いやあ、大日本帝国だって自分の所の国民は殺してないでしょう。それにしても、この盛り上がりをご覧下さい。この状態はもう鎮圧しきれませんよ」
 確かに、私もこの時はそう思った。
 暫くすると、群衆の間からわーっという歓声が上がり、拍手が起こった。
「烈士の遺族の皆さんです!」
 と、放送局が伝えた。北京で殺された人々の家族たちが来たのである。そのうちの一人、目に涙をいっぱい浮かべた小学生ぐらいの男の子が、B大の若手教師に連れられて「聖域」まで来、一緒に座った。
 その後も2回ぐらい、私は、広場も含め、町の様子を見に行った。
 広場は、5日に比べるとやはり人は減った。でも、「6月4日事件」以前から見れば随分盛んである。特に、放送局の威勢がいい。
「北京情報、北京情報。ただ今入った情報によると、現在北京では、二つの部隊の間で激しい戦闘が行われている模様」
「北京情報、北京情報。北京からの知らせによると、戦車数台に守られた数台の自動車が中南海から出てきたとのこと」
 他には、西側カメラマンが撮った「6月4日事件」の写真が、新たに貼られていた。
 町では、北京帰りの学生たちが辻説法をしていた。即ち、市民たちに写真を見せながら北京での出来事を説明するのである。なお、例の「38軍の決起」は、A市でも深く信じられていて、市内には「38軍万歳」といった張り紙も見られた。
 総じて、この頃は、私も含めてA市の人々の間に、勿論怒りはあったが、一種の楽観論があった。先ず、虐殺のため、それまではしぼみかけていた運動が再び盛り上がって、学生と市民との団結が深まったという事実があったし、またそれ以上に、鄧小平集団のあまりの暴挙に、保守派や軍部や地方自治体の中にも反感を抱いた者がたくさん現れて、鄧・李・楊たちは苦境に立つ、という願望的常識論が大きかったからである。