(奇妙な断片 その一)
その夜、闇の中を歩く赤い顔の男を見てしまった。私はたしかに酔っていたのだが、その男は酔漢ではなく、ピエロでもない。いまから思うと、彼は受難者なのである。男は年老いた象のように濁った眼をうるませ、鼻のかわりに長い舌で瞼の下を舐めている。おそらく、舌が届かないので、想像上の〈眼〉を舐めているのだ。男は抽象的な〈眼〉を玩具のように口の中に入れたり出したりしている。掌の上で転がしたり、宙に浮かべたりもしている。これも、妄想行動なのだろう。それは、私にしても同じことだ。
彼(と私)は長い舌でその〈眼〉をねぶりながら、「ちえっ」と舌打ちした。光が失われた真っ黒な闇空に、青白い蛍光塗料が刷かれて「ちえっ」に相応する記号が現れる。もちろん、それは漢字でもなく、ひらがなでもなく、英語でも、アラビア語でもない。実体を伴わない概念の記号。そして、大音響とともにその記号自体が分解し、またたくうちに男も闇をも解体し、消去していく。(私は口をつぐむしかない。)
空でも反‐空でもない、何もないはずの場所に、いつのまにか取り残されていた別の男が(私が)赤い顔になって次のように呟く。
「子供のころから、わたしには白湯を飲む悪癖がある。なぜ悪癖かというと、電気ポットの中で煮えたぎった湯をアルミの細い注ぎ口からラッパ飲みするのだから。かなり熱い湯なのだが、かまわずごくりと口に含み、咽喉に流し込む。もちろん、舌と咽喉の粘膜が焼け爛れる。火傷した咽喉の粘膜が食道から奥に垂れ下がってくるのが分かる」
「その刺激と自傷からくる興奮に、わたしは麻痺するのだ。腸という筒でできた人間を、入口から串刺しにする感覚でもある。まさしく自虐行為なのだが、何度も繰り返すうちに湯の量と温度と頻度が増し、苦痛の増加とともに、それは快楽につながっていく。
「自分自身でも、その苦しみの連鎖が終わらないことは承知しているにもかかわらず、やめることができない。白湯を体内に流し込むことに拘泥しているのだ。これは、犯罪意識に通じているのかもしれないし、常習性があるので麻薬にも通じているのかもしれない。おろかなことはなおさら断ちがたく、そう考えると後先のことも忘れていっそう回数が増えてしまう。自慰行為と同じことだ」