見夢録: 2013年11月24日 twitterでの発言について(1)

ブログ開設と同時に、twitterを始めてみたのだが、つぶやきっぱなしというのもなんなので、少しは説明を加えながらいろいろ考えてみたい。

その前に、twitterというものについて。
いまさらなのだが。この30年弱、当方はネットワークの可能性についてある種の期待を持ってきたのだが、だがそれは、たしかにアメリカ国家の権力システムの伝播と世界経済の要請によって、抑圧的、管理的なものになってしまっている。
もともと、そのような世界の抑圧に対峙する可能性を、その最底辺つまり個人レベルで獲得できるのではないかという期待を、初期のネットワーカーは抱いていたに違いない。もちろん、いまだ過渡期なのだと、まだ可能性を捨ててはいないのだが。
しかし、初期コミュニケーションの荒廃状況から、ネチズムなどといって自主規制のルールが広まり、これが商業主義とあいまってクローズドなソサエティを仮想的に構築するような展開がみられるようになった。
このころから、当方はこうした閉鎖性というものに疑念を持ってきたのだが、閉鎖的なソサエティがめくらまし的に、開放的な装いでのコミュニケーションステージとして偽装されてきたような気がする。
もちろん、グローバリゼーションとはビジネスのステージで喧伝されていたので、多くの人々が経済の欲望の中に叩き込まれたのも頷かざるをえないのではあるが。
いまのところは、ソフトであろうがハードであろうが先進国の権力的管理社会ではネットワークは秘密警察型管理ツールとなっていくようだ。
しかし、だからといってやられっぱなしではないので、ネットワーカーは逆に自主規制の裏側で反撃を始めてもいる。
ネットワークは物理的にはインフラなので、たしかに経済によって基幹は押さえられている。サービスというのは、あくまで経済的サービスのことで、社会的サービスのことではない。対価が求められる交換価値の原則が支配しているわけだ。商業主義と法と権力に保全されたバックボーンによって。
後で触れるが、このtwitterにしても結局は同じであることはいまさらいうまでもない。twitterルールというものが、ネットワークの正義のように示されているのも、考えてみれば逆転現象でもある。けれども、おそらく多くの意識的なネットワーカーは、ゲーム参加のルール程度に把握し、問題はその規制の壁に挟まれた細い通路を通って、コミュニケートする実質でたたかっているということなのだろう。