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粧いがあらためられ、街の姿がいかほど移ろおうとも、道のありようにさまでの変遷が感じられぬというのは、なにやら面妖な気がしないでもない。明治通りと靖国通りの交わる角度にも変わりはないし、大ガードから追分を経て半蔵門に至る通り、また裏通りのどこかくすんだ様子なども昔と変わりはない。今はもう言っても甲斐なきことだが、懐旧の思いが胸を打つときがある。魂に皺でも寄るのだろうか。
このあたりを烏のような黒ずくめの恰好で徘徊していた時期があった。まだ土地の磁力が強い頃で、失恋しては泣く男、道端に歌を書きつける男、爆弾を抱えてうろつく男、薬漬けの頭でジャズを聴く男など、得体の知れぬ若者たちが渦巻いていたのだが、今となっては皆、どこにどう囚われているのだろう。
時を経て街の匂いに浸っていると、風向きさえも明らかならず、どこをどう流れるのか、見知らぬ人々の風が吹き渡る。いつのまにか、そこから抓み出されてでもいるような気がした。逃れるような思いで鳥居をくぐると、高い建物の影が伸び、雑沓から取り残された静けさを蔽っていた。ビルの向こうで、弱々しい光の脚を曵いた夕陽が沈もうとしている。蝙蝠の飛び交う季節なのだが、木の下闇からたちあらわれるのは古い女の亡霊なのかもしれない。花園神社の片隅で、植え替えられたばかりの一本の樹木が泣いている。耳を澄ますと、じゃん拳チイリイサイの声が聞こえるように思われた。「取りつく比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と唱えて雀の子を奪い合っているのは誰なのだろう。
不謹慎な話だが、夜の夜中、二丁目界隈できこしめし、勢いもあってもう一軒と、この境内を抜ける道すがら、木立ちの傍で小用を足したことがある。雨後のため石畳の面は洗われ燦いていたが、背中を気味の悪い冷風が疾り、両肩に何かの気配が重みとなってのしかかった。酔いもどこへやら、あわてて最後の店へと急いだ。濛気のたちこめる露地裏の店でそのことを喋ると、洗い物を始めていたバーのマダムが嫌な顔をした。その白い顔を後にしてタクシーに乗り込んだのだが、誰の句か知らねど「あきらめる心の底はむごい也」と詠む女の泣き声を耳にした。車から降りると重苦しさは離れてしまったけれど、置き忘れた霊が積み重なって東京中を駈け廻っていると書いた作家のことが思い起こされた。
なぜ今さらそんな古いことにこだわっているのだろう。こわれやすい陶器のパイプから、この大きな聖遺物器の夕空に向けて白いあやふやな烟をたちのぼらせると、ふたたび繰り返される十年一日の夜のことを考えた。
明治も後半の記事に「奥多摩郡といへばやや田舎めきて聞こゆめれど、内藤新宿のことを指すなり。……今より幾年の後には、東京の場末町ともなるべし」とあるが、街の風も老いたり、ここいらが限度だな、と呟いた。
(初出 詩誌『緑字生ズ』第3号、1984.6刊)