〈時間の停止〉〈歴史時間の停滞〉歴史が現実的時間とは無関係、あるいは絶対的な関係をもたないということ。一方で現代資本主義が歴史時間の停滞によって腐敗しているということ、資本主義の歴史的展開を瓦解させつつあるということ。同様に社会主義諸体制も膠着し、時間のダイナミズムを失い朽廃しつつある。だがこれらは世界の老化というよりも、現実という泡沫現象に過ぎない。政治的には、現実的時間を越える、あるいはそれを蔽う歴史的時間が存在しない、つまりあらゆる必然性が崩壊することによって現実認識が優先されて、左右の意義が急速に失われ、機構の自働化現象が起こり、密度の中で腐敗し涸化してゆく。社会的には、循環運動が求心的に働き、あるサイクルの絶対性を越えることなく、あらゆる社会的冒険も泡沫現象にすぎず、バリエーションだけが問われることになる/
じつは、あのときから夢をながながと見ているようで、生きている実感がない。けれどもそうこうしているうちに肉体的な時間だけが確実に過ぎてゆく。家庭を持ち、子を生み、育て、老化している。それが現実だといわれればそうかもしれぬが、納得のいくものではない。生きている時間とは無縁の生物学的な個体の推移にすぎぬはずだ。では生きている時間、生きている世界はどこにあるのか。内的な世界、つまり無数の妄想断片をつなぎ合わせ、構築していく全体化の中にしかないのではないか。停滞した現実世界と比して、それは同じ質とそれ以上の量と永遠を持つに違いないのだから。精神病者は単一の妄想断片を持つといわれるが、正常者(?)は複数の妄想断片を同時に持つことができる。少なくとも現実と妄想断片aという二つの世界を同時に所有できる。そしてさらに無限の数の妄想断片を持つ可能性もある。個的には、それらをパラレルに所有して、それらの構築物を精神とすることもできる。これはたとえば、現実という絶対性が実は相対性として、つまり数十億の異なる現実が同時に存在している〈地球の夢〉と同じスタイルを持っている。だから夢あるいは妄想は現実にもう一つの現実であり、より多くの現実である。〈妄想エネルギー〉
(初出 詩誌『緑字生ズ』第3号、1984.6刊)
*註 初出では改行なしだが、可読性のため、「/」で改行した。