デリュージョン・ストリート 10 (妄想ノート) 妄想分析

三島由紀夫の人民への愛、絶大なる共感は、洩れそうになればなるほどに陳腐化され、諧謔化され、意識的に隠蔽される。安田砦での嬉々とした様子を想い起こせばよい。左翼に抱いていたと流布されている三島の危機感とは、左翼の自惚れとも、被害妄想云々の鈍感さとも隔絶した、彼の左翼に対する愛ではなかったか。/
天人五衰の難解さは、三島由紀夫の戦略的な動揺によるのではないか。結局、三島は情熱に戦略を与えるという、夢想の交接に落ち着いたのかも知れぬ。/
暁の寺が韜晦だというのは、大乗仏教の研究という裏返しの姿勢、つまり神道でもなく、武士道でもない、完璧に三島とは無関係なものを、独力で思想の形にまで押し上げるという、三島の実質の力を証明したということ。その力量からするMarxisimへの理解、本質的な到達。それゆえに仏教という衣によって完全に蔽い隠すということ。/
三島由紀夫は自分に役割を与えた。誰に気づかれることもなく、まるで反対極のように身をおいて、その実質を自ずと現われる張力によって現実という場面に突出させようとしたのではないか。三島由紀夫は身をもって、悪の権化になって、本質的な状況を生み出そうとしたのではないか。/
ここで、ある俗説を思い出す。Karl Marxはイギリスで炭鉱労働者を目の当たりにし、彼らがあまりに動物的な悲惨さのうちにあり、その存在の気味悪さに生理的に脅かされ、彼らをまるで自分とは違う生き物、唾棄すべきものと感じ、嫌悪感という貴族的な立場から、つまり獣以下の汚らしい人種を抹殺すべく資本論を書き上げたというのだ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)
*註 初出では改行なしだが、可読性のため、「/」で改行した。