妄想分析
あれから数年後のある日の午前三時、寝床の中で夢うつつにして謎の天人五衰を妄想分析していた。/
聡子は権力構造そのものであり、透と狂女は肉体と精神、美と醜との両義的な一致、あくまでも透は転生の真物。これら六十年間の時の捷径が本多の夢想であること。肉体の美と精神の美とをともにもつのか、肉体の醜と精神の醜をともにもつのか、いずれともつかぬ不可思議の胎児、生きて誕生するのか死児となるのかのも不分明のまま、本多の夢想が予望として透と狂女の間に生んだ唯一の現実がこの書に存在していないがゆえに、確乎たる存在として、本多が、いや三島由紀夫がそれに賭けているもの。/
豊饒の海が本多の邯鄲夢であり、その本多を夢見るのが三島であるならば、肉の衣のその中に、人に知られることのないMarxismへの暗い、熱烈な情熱が。/
pathosの文学。外に現われることを極力押し止める密教的な匂い。自決さえ肉の衣であってみれば、自己顕示などの下司の勘ぐりどこ吹く風、disguiseされた反面教師としての暗鬱たる情熱に支えられていたことは……。/
それこそ永生する人民、愚昧で醜悪である人民と、それゆえの彼らの革命的な情熱の至純さに、まるで対極的な存在、つまり透を注入し、革命という畸型児を現出せしめようとしたのではないか。自らの死が何ものをも動かさざることを、人民は愚かで醜く、世界は聡子のように傷つけられることもなく、すべてが夢想の譫言として片づけられることを了解しつつも、肉体に精神を注ぎ込む、あるいは精神に肉体の鎧を着さしめるという、三島由紀夫の最後の夢想を自死に託したのではないか。/
あの夢想する鼠の話という陳腐さこそ、三島の、左翼に対する唯一の願い。だが、左翼の現実こそ、永生の衣をかぶった不純さ、俗物性。三島は夢想の革命を、時間という腐った現実に転換したのであるか。彼は彼の偽装を賭して人民の美しき心を問うたのであるか。/
文学的な質の高さからは春の海がもっとも優れ、作品の力という意味では天人五衰が傑出している。そして三島由紀夫の偽装の極みが奔馬の勲である。だから、三島の本質的な偽装としての勲は革命的であり、そこに肉体に対する決意が、自決に至る人生が決定づけられたのではないか。暁の寺は韜晦であって、この部分には何の愛着も抱いていないようにもみえる。/