デリュージョン・ストリート 12 曰く

 一方の極には発行部数数百万部の全国紙を頂点とする活字メディアがある。一新聞で数百万部とは大きな威力を持つかに見えるが、読者対象人口を仮に五千万とすると、数百万部とは全体の十分の一、つまり十人のうちの一人に対する一方的な情報伝達で、その情報が納得して受け容れられる確率などはお話にならぬくらい低いものであり、新聞という存在が思っているほどの力など、言うほどないと思わねばならない。文化のリーダーシップなどいうは恥ずかしい話である。そればかりか、新聞など目の前を通過するインクのしみにすぎない。ましてそれ以下の出版文化、とくに現代的(つまり、より区切られた時間内の、より状況的な現実という時間内に適合した)とされている状況的文化などは蚊の鳴く声にもなりはしない。
 また、もう一方にはエンタテインメントを軸にしたTVなどの電波メディアがある。エンタテインメントとはただの商売である。文化の形は商売になると見定めた商売という存在の中の、囚われた文化らしき存在が、状況的現実を作っていると思いこんでいるようだが、これも根も葉もない不毛の現象である。TVなど、壁の片隅のただのしみである。スイッチを切れば消えてなくなるしみに何の力があるというのか。
 かてて加えて、近年開発急のニューメディアは、たしかに現在のエンタテインメント中心の状況的文化のありようを根本から変えてしまうのかもしれぬ。だが、ハード面の研究に比して、ニューメディアによる情報自体を使用者がどう選択し、どう吟味し、いかに活用するかというソフト面が欠落していることも事実である。そしてそれもまた状況的現実というもののお粗末さの表れでもある。けだし、そのようなことは瑣末なことだ。
 つまり、情報の量が厖大になり多様化しているということ自体すら、ただの状況的現実、錯覚された現実にすぎぬからである。それゆえ、それを吟味選択し、自らの味方に仕立て上げ、有効に活用しようなどは本末転倒なのである。ハードウェアが先行しているということは、いかな情報といえども管理と制御の洗礼を受けねばならぬということである。そしてこの情報交通の基本構造がハードウェアの設計思想として決定づけられているのだから、裸の情報などその性格からおよそありえぬわけだ。
 だが、たとえばINSなどの蔭に郵政官僚の情報掌握の魂胆が見え透き、さらにその奥に階級的意図や帝国主義の意志の貫徹などを指摘したところであまりに当然すぎて面白くもない。ただ、情報という現代社会(状況的現実)の最尖端の問題と言われるものにしても、その裏にあるものが露骨にすぎ、露骨であるがゆえに逆に現代社会というものの程度の低さを知らしめることになる。