ここで文化ということに話を戻すと、たとえホームオートメーションが完成し、ニューメディアによって包囲され、新たな文化的関係を強制されようとも、すでに人間は存在するものをただ存在しているとは見ないのであるから、また情報にどのような意図や操作性が装置されていようとも、肉に触れうる直接性以外はじかに、あるいはその意図どおり正しく把握するつもりなどないのであるから、ただ単に一つの妄想の中で消化するだけのことである。人間は人間である、つまり人間は肉体でしかないわけであり、その意味では人間の生活に大きな変動を期待するなどは愚の骨頂である。文化とはもっと大きく深いうねりから突出するもので、目先のつまらぬ選択やバリエーションの自働化から生み出される泡沫現象とは関係がない。そして、そのようなことをわきまえないで流布されるくだらぬ心理実験など人間の尻尾だ。
メディアの器は自らを特殊世界化するが、傍目にはその周りの空間につきものの微小な澱みでしかない。いかに高度な情報性を有そうが、その存在が喚きたてようが、メディアはただの存在のしみである。われわれは退屈しのぎに壁面のしみから様々の事柄を妄想するが、メディアというしみにしたところで、そのような何でもない作業のうちに他のものと区別もなく呑み込まれてしまうのである。
それゆえ我々のなしうることといえば、状況的現実がチャンネルを切り換えるようにくるくる変動しようと、惑わされることも振り回されることもなく、飽きたらいつでもスイッチをOFFにして、ただただ自らの裸の思考のうちに、妄想すべき世界の根をしっかりつかまえて作業するということだけである。
(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)