陳独秀は『青年』(後『新青年』と改名)雑誌を創刊し、新文化運動を提唱した時、「時政を批判するはその旨に非ざるなり」と主張していた。しかし、これは、彼が政治制度方面から西洋に学ぶのに反対したということを意味しない。それどころか、彼の最初の政治的理想は「西洋式の新国家を建設し、西洋式の新社会を組織する」ことであった。彼が専ら思想の啓蒙或は文化の批判に意を注いだゆえんは、ただひたすら「西洋式の新国家を建設し、西洋式の新社会を組織せんと欲し、以て今の世の生存に適うことを求むることは、則ち根本問題にして、先ず西洋式社会国家の基礎、いわゆる平等人権の新信仰を輸入しなければならない。この新社会・新国家・新信仰とあい容れない孔教に対しては徹底せる自覚・勇猛なる決心がなければならない。さもなくば、ふさがらず流れず、止まらず行かない」(『独秀文存』巻1、p.362)。
陳独秀の上の主張は甚だ偏っており、また実際に通用しないものではあるが、しかし、当時の歴史的条件の下で、疑いも無く、文化上のある種の絶対に自己閉鎖・夜郎自大にならず、敢えて世界に向かうという壮大な志と雄大な心意気を表した。
当時の歴史的条件を考えあわせると、私たちは五四新文化運動に次のような特徴があることが分かる。
第一に、当時の中華民族生死存亡にかかわった大衆的愛国反帝運動と密接に関係している。そして、それによって前途を開拓するきっかけと力を獲得した。
第二に、文化選択の上では、敢えて世界に向かい、古きを破り開放する中で新しきを立てることに心を砕いた。
第三に、「科学」と「民主」を旗印とし、当時の極めて複雑な文化運動に、相対的に同一な方向を与えた。
第四に、要を押さえ、中国社会の前進・発展を阻む中心たる惰性的精神勢力――封建伝統文化に対して空前の徹底的批判を行なった。
勿論、この四つの特徴だけで五四新文化運動をすべて説明しうるわけではない。しかし、これらの特徴に注意し、又これらを現在我が国の学術界でちょうど行なわれている文化論争と比較すれば、その中から何がしか有益な示唆が得られるであろう。
周知の如く、現在の文化論争は80年代半ばから始まったものである。全体的な社会背景から見るならば、その勃興は改革・開放を契機としている。しかし思想行動の前後関係から見るならば、10年の内乱と、50年代後半から次第に盛んになり蔓延してきた左の過ち及びそれがもたらした結果への反省が、出発となっている。経済体制改革の深化により、人々が長年金科玉条としていたたくさんの観念・思想ないし行動様式・思惟様式が現代化の過程に適応できないことはますます暴露されてきている。この不適応に対する人々の肌身の感覚が徐々に上昇して一種の自覚意識となった時、文化問題に関する論争がそれに伴って生じた。