[資料] 天安門事件: 事件直前の記事等の翻訳[01] (佐丸寛人・訳)

 もとより、今回の文化論争で、多数の論者の中国前近代伝統文化に対する態度は、五四新文化運動の多くの主な代表的人物(陳独秀・魯迅等々)と比べると、より慎重でより穏当なようである。しかし、私の理解するところに拠れば、農業文明の中で誕生・発育・成長してきた前近代伝統文化と現代化過程の間には激烈な衝突があると考え、従って伝統文化にもう一度徹底的な批判と整理を行なおうと主張するのが、多数の論者の共通認識である。「儒学第3次発展期」が来るだろうと予言する海外の学者杜維明教授でさえ、五四の批判精神と打倒孔家店の伝統は継承すべきである」と言っている(『読書』1985年第10期を見よ)。この他、今回の文化論争は我が国が対外開放政策を実行しているという背景で進められているので、近代特に現代と現在の西洋各種学術思想とあまたの思想流派の翻訳紹介・評価・研究は、広さ・深さ或は規模でも、五四新文化運動の遠く及ばないところである。(原文「近代特別是現代和当代」―訳者)
 しかし、事態にはもう一つの側面がある。
 先ず、目下の文化論争は一時に沸々とわきいで、ある種の百家争鳴の観を呈しているが、当初の五四新文化運動と比べると、今に至るまで多数の人をその下に集められるような旗を立てられないでいるため、また目標が分散し主題が明らかでないため、人々にそれらが開拓・打開する中国文化発展の方向と道を見せ、把握させることに苦労している。或はこう言う人がいるかもしれない、多元化は現在の世界文化発展必然の趨勢で、我々はこの問題で一本の共通の旗を立てる必要は全くない、というのも中国の文化も必然的に多元化に向かうからだ、と。しかし、いわゆる多元化自身が一本の旗或は一つのスローガンであることを決して忘れてはならない。問題は、それが今に至るまでまだ中国文化界の認知同意を得ていないという点にある。しかも、私の見たところ、このような一本の旗或は一つのスローガンが、少なくとも現在及び予見できる今後かなり長い時間内に、国民的な認知同意を得ることは難しそうである。その次に、今回の文化論争が現在重点を置いている前近代伝統文化に対する非難と批判が的を射ているかどうかも大いに疑問である。多くの人を困惑させているのは、70年にも及ぶ社会変革の荒波を経て、現実に存在する中国文化が、依然として基本的にその元来の様相をまだ保っているか、即ち、全体的に依然として儒学を主体とする前近代伝統文化の範を出ていないか、ということである。もし答えが否なら、はっきりしていることだが、目下の文化論争の重点を前近代伝統文化への反省・批判・改造に置くことは、現在の中国文化の現実的情況と離れ、隔たってしまうことは免れないし、また当然靴の上からかゆい所を掻く感も免れ難い。このようであれば、今回の文化論争が現在の中国の文化建設とすべての現代化事業に対して、予期したような推進作用を果たすのも恐らく難しいだろう。