未刊行詩集『空中の書』26: 鏡子

鏡子

鏡子が白樺林から出てきたときには、山の端に黄昏陽がかかっていた 隈笹がびっしりおいしげる道を過ぎたあたりで、虹色にきらめくひかりものに気づいたので、足早に近づいていくと、笹のするどい葉でさっとふくらはぎを切った 白い脚に赤い血が涙のようにしたたるエロティーク ふっと叫んで指先でぬぐってみると銀粉がついていたので、きっと笹の花粉は銀色なのだわと考えながら、少女は北国の中で小人のようにうずくまった
 
 
翌日、同じ道を、こんどは笹の葉に気をつけながら歩いてゆくと、ひどくむずかしい数式が書かれた紫色の紙片をみつけた 鏡子は屈折率という単語とπという記号しかわからないのであるが、昨日切った傷口に残っていた銀色の粉は光のかけらなんだわと思った とたんに気が軽くなって、いつものように若草のもだえという唄を口ずさんで向こうに行ってしまった あとから聞くと、その唄はこんな文句だった
 ?萌ゆる萌ゆる 草の実さん
  いつからおまえはひとりもの
  お嫁にいってあげようか
  夜はあたしも恐いのだから
 
 
あるとき、肘掛椅子に坐っていると、窓の向こうにひかりものをみつけたので、サンダルをはいて外へ出てみた 霧のせいで、そのあたりには虹がふたつかかっていた なんだか寂しい気配がするので、鏡子のお友だち! と叫ぶと、向こうから、お友だちの鏡子! という声がかえってきたので、あわてて肘掛椅子にもどってふるえていた あとでよく考えてみると木霊のいたずらだと気づいた
 
 
裏側に水銀の塗布された、直径五センチメートルのガラスが空を映していた そのうちに地球の芯のあたりから黒雲がわきだして、雨が降りはじめた 鏡子はいそいで雨除けをとなえてのぞきこむと、鏡の中の空はすっかり晴れていたのだが、水銀が酸化してどろどろ流れだしていた そっとぬぐってみると、赤い血糊が指先についた けれども、その鏡には時間がつまっていたので、痛がって声を出す必要もなかった