その場所は貧困層の集まるところではない。大きな道路の交叉するあたりである。
子供が数人、地べたに這いつくばうように群がっている。女の子もいる。身なりもごく普通、特別に汚いわけでもない。
そのそばを通ってそっと覗くと、彼らの中心には発泡スチロールのパックがあり、近くのゴミ集積場からもってきて、歩道の真ん中でそれを漁っていたのである。飯を手づかみで口に持っていっている女の子の顔が印象的だ。猫のようなしぐさ。
プノンペンではもっと貧困な、親も家もないような子供もかなりいる。
小学校の清潔な制服を着て、それなりの家庭があるような子供たちがなぜ道端でこのようなことをしているのか。
育児放棄、そんな気がした。 子供に対する親のありようが、もしかすると普通ではないのかもしれない。
ひとつにはもちろん、内戦を経て親を失い、あるいは虐殺の当事者の子供が親になって、親子の関係がひと通りでないこと。何世代にもわたる、深い傷を心の闇に閉じ込めてしまって。
あるいは、欧米の資本主義の急速な流入によって、異様な価値観がネグレクトを含む個人主義に傾倒していくために。原因を作った当事者たちが、アジアの代理人を巻き込んで、厚顔にも援助などという強欲資本を投入しているのだ。
さらに、消費の構造が歪み、食べることを含め実質的な生活感覚が稀薄になり、金銭的価値観が優先されていく。まるで、飼育場の家畜のように太らされては「幸福」を吸い取られて。
ディズニーランド化された商域に蟻のように群がるヒステリックな消費者たち。貧しさもかえりみずに。
これらはまさしく現代資本主義に形を変えたコロニアリズムなのである。
それは違う、豊かさの中に未来があるのだ、というかもしれない。
だが、消費社会は投資した巨大資本に還元されるはずなので、消費し尽くした挙句に残されるものは、考えるだに恐ろしい新しい未来でしかないではないか。
見夢録: 2016年01月12日