連載【第005回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: microtubule 2

 microtubule 2
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。

「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

 偽腔Aは向こうにあるものだが、つねに向こうであることを余儀なくされる。外膜、中膜、内膜と、私は外側から推測する。偽腔Aは三段階の膜層そのものであるが、その本質は充たされたものではない。彼はすでに自分がたんなる肉体の概念であるということを認めざるをえない。そして、そればかりではない。偽腔Aはみずから提起する問題について何もないところから始めなければならないのだ。それだからこそ。

 肉体の部位は実質で充たされるということは不可能なのだ。部位のいたるところは空洞で、部位を構成する細胞も嚢状の構成物である。肉体の思想は空虚から始められている。それだからこそ。

 肉体は肉体に語らせよ。このときの肉体とは部位としての肉体である。身体は機構であるが、肉体はぶつ切りの個体であり、想像力を根拠にする個体。そして、生命活動を続ける以上、それぞれの空洞に生か死を選択する意志があるはずなのだ。いや、意識といったほうが明確になるかもしれない。肉体の部位が独立して何かを感じ、思惟し、肉体が肉体の意識をゆらぎ立たせて蠢きはじめる。脚や腕の関節はもとより、内臓や性器、体毛、爪、さらに細胞の一つ一つが自らの意志を、それと気づくこともなく、意志を立ちのぼらせる。
 私は何のことについて述べているのだろうか。おそらくそれは、神秘主義や機械主義的な外圧やガバナンスに支配されないで、すっくと立ち上がる部位の、いわゆる肉体のゆらめく舞踏ということをイメージしているに違いない。
 肉体にまかせよ、ということは可能である。しかし、身体にその本性を任せよということは不可能なのだ。肉体は肉体の意識を律動させるが、身体は肉体を統御しているにすぎないからだ。(微小管)