デリュージョン・ストリート 12 曰く

曰く

 情況とか状況論ということがいわれていたのはついこの間だったような気がするが、いつのまにかそのようなことどもは影を潜め、近頃ではいろいろのことが相対化されているようで、それに伴って現実というものが宙に浮き、その意味あいも下落しているらしい。いっそこのような現実を指して状況的現実と呼ぶのも一興かもしれぬ。なぜなら、この現実とは、すぐ影を潜めるような状況性であるらしいからだ。
 その状況的現実の中で、情報という問題は最もホットなものとされる。そういえば、この十数年来のソ連情報に関する工作の成功は瞠目すべきものである。またそのような伏線に沿って、大韓航空機事件、アキノ暗殺、ラングーン事件などを眺めると、このアジアでの生々しい動きがはたしてロスアンゼルス・オリンピックに繋がるものかどうかは知らねど、なにやら筋の通ったシナリオが浮かぶのは当方のうがちすぎか。
 ところでそのオリンピック、高邁なスポーツ精神、世界平和などというのは赤児の寝言にしても、現代世界のチャンプであるアメリカがその総力を集めたにしてはなんともチャチで子供騙しの感は否めない。成金趣味は致しかたないが、飛行船、人間ジェット、聖火ランナーの茶番劇、点火の際のくだらぬ仕掛、大統領の大根役者ぶり……、開会式を見てさえ、どこに今世紀最大の国家の力と知性があるというのか。このところ過激になってきている謀略の仕掛人たちの粗雑なプランと同じで、底の割れるような浅薄さである。
 その様子が衛星中継で日本に同時に伝えられるのだが、TVの箱の中だけの熱狂というわけで妙に白々しい。TVから伝わるものは感動やら昂奮を強制するのだが、そんな手に簡単に乗るものではない。近頃流行はやっている演出技法に、この強制、つまり無理矢理にブームを拵えるというものがあり、これが成功しているといってはまた強制する。もちろん流行などというものばかりでなく、政策的見地から意図的に優先させられる情報というのもあるのだが、TVの箱の中の存在はそのような情報と交接しているがゆえに、いつのまにか世界の中心が箱の中にあると本気で錯覚しているらしいのも愛嬌というものだ。
 もともと文化というものが現象といわれる形で切り取られるとき、そのような性質を発揮するようだが、このところの文化の状況的現実でさえ情報の力というものに支えられているように思われる。いわゆるマスメディアである。