自由とは何か[013]

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 ――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語? つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。
 頭蓋骨の幽霊が言っていたわね、骨の内部に永劫の魂は封じられているって。つまりそれは、内部に向けて、からだはからだの中で解決しろってことなのかしら。まるで、幻想的な頭脳、抽象的な頭脳、観念的な頭脳。それだから、実在しない頭脳を内包している頭蓋骨のひからびた遺伝子のなれのはての夢ということになるのかもしれない。肉体と意識を支配するっていうのはそういうこと? 意識は頭蓋の内部の空っぽから支配と抑圧を受けている。幻想の脳髄と神経システムが部位の肉体と意識をそれぞれ支配している。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたようになじるのである。このときは、乱暴ではあるが、pousse du bambou(たけのこ)のオイル煮をウイスキー片手に食していた。

 ――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない、といった友人もいたが、それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれという、仮定の質点からの。
 じつは最近、眠っているときにある種の体系から執拗な夢が送られてくる。それは、攻撃といってもいいかもしれない。こんなことを書くと、私もあの手の輩かと断じられる恐れもあるが、なに、そんなことはどうでもいい。記述の抑揚をつけるためにそのような言い方をしているにすぎないのだから。その夢は、脳髄と神経システムの大本であるDNAという生命系の問題である。そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。