「詩」が、伝達とか交通において、彼らの望む「機能」としてはそれを裏切るごとく、誠に下劣で役立たずである以上、彼ら「表現の絶対性」を隠れ蓑にする連中にとっては、意味を認めようと信ずるしか手がないというのは、実にお気の毒さま、というところである。だが、意味も価値もないと考える上でも、なおかつ、何故「詩」であるのか。その前に、「詩」の自律性ということについて考えてみたい。「語」がインクのしみという上で現実性であるということは了解される。また、ある対象を指示するという現実性も認められる。だが、ここではその裏に現実への共同的な認識と「語」に対する共同的な認識が貼りついている。また、「表現」するという意志性が関わる場合には、観念的な水準がこれに加わる。このときには、インクのしみを媒介にした観念の交通形態であるから、今度は観念自体に還元されることによって、現実に対して観念が自律しようとする。ここまでは「表現の絶対性」の領界である。ここで、前に戻って「語」がインクのしみという形態をとらざるを得ないというところで、「絶対性」という規定を取り払ってみる。すると、「語」は「表現」という現実的帰結に過ぎない。つまり、現実性に関してはただそこにそれを借りて現われたに過ぎない。また、観念性に関しては、あちら側が「絶対性」のうえで現われたのてあるから、こちら側は「絶対性」を借りただけで、ついでにそれをも借りたに過ぎない。ということは、「語」の自律性とは、現実性と観念性に関わりをもつが、直接のそれではない。では何に対しての関わりを持つのであろうか。ここでは、それは「語」の彼方、つまり「作品」であると仮定しておこう。
さて、誕生とはおよそ現在に対する反現在である。それは、過去を包み込んだ現在を、それ自体、腐蝕の海に漂わせながら、まるで何のあらわれもなかった如くに葬り去ることによって可能である。それは、己れの際限なき全体性の闇へ、能う限り、くまなく、自らの戦慄を吐き出しながら、翔びたとうとする。「作品言語」は、まさしく詩と詩人の現在から登場する。しかし、それは詩と詩人の現在を埋葬することによって可能である。作品とは、その作品言語が己れの自律によって到るべき彼方である。未だ、作品の本姿は一瞥をも与えることはなく、語の過去が撒かれているに他ならない。その彼方は恐るべき無の淵でありながら、およそすべてのものそのものでもある。語はそれへ向けて疾駆し得る唯一の実体である。詩人とは、己れの現在を徴候としてそれに与えるエネルギーである。語と詩人との、この悪魔の受感こそが、彼にとっての可能な行為なのである。