現代詩論 悪魔の受感 慶應大学『文連新聞』, 1974

「いってみればそういうことになるが、しかも、文学と、もくろみは、書くことに於いて、極点では、書くことそのもののなかで書くこと、エクリールのなかのエクリールとしかいいえないひとつの運動になる。
 書くことそのもののなかで書くこと、このようないいかたで僕は自分の行為を説明するよりどうしようもない。そこで僕は出会いを待つのである。もう何に出会うか出会わぬかも忘れて。」(同、前掲出)

 
 作品言語と作家との関わりの構造とは、いったい何なのか。詩についての支配的な考え方は以下のようなものである。詩とは作家の表現なのである、と。これは、新体詩以後、戦後詩を経、現在に至るまでおよそ変化してはいない。というのは、まず作家主体の内部的なものを、感情とかイデオロギー、思想、その他をそれぞれ取り換えたり、また「表現」のかたち、方法を換えたりという具合で、評価の側からいうと、最終的には「表現」された語が作家と受け手をどれだけリアリステイクに(感動)結びつけるか、という構造として。だから、伝統とは、正しくこの作家の自己への思い入れを作品に託すことを示すのである。故に、こうした作家への思い入れが現在のように個的な存在論、思想を裏の素材として重視することに還元され、それを通じることによって作家絶対主義へ転ずるのである。作家のそうしたものがどれほどの重要性があるのか、と問い直した方が早い位のものである。だが、どれほどのものであってもそれで思想として世界史に肉迫できない敗残者のものは、伝達しようとする自己そのものの底がつきてしまい、そのため次に必要とされるのは、伝達の方法と過程において質ではなく「感動」の量を大きくするという技術であり、これこそ「芸」の本質なのである。作品を衝き動かすものが、このような作家の他愛ない自己表明への欲心でしかないというのが実情のようである。
 この数十年に及ぶ日本の詩の伝統性という円環は、だがそろそろ裁ち切られ、終了するであろう。引用した、中江俊夫も含め、語と詩人との受感によって衝き動かされて詩人たる作家が、わずかではあるが存在しつつあること、また「詩壇ジャーナリスム」においてさえもようやく技術に還元されている詩の現在への批判が出てきてはいるからである。勿論それが、後者、例えば岡庭昇のように正当なものではなくても、この技術の問題が日本の現代詩の伝統の中でどういう構造を持つかが問われれば、そのことによって、作品と作家の関わりの問題が明らかにされるからである。