悪魔の受感
――作品言語の夜に向けて
『文連新聞』第3号昭和49年4月6日付(発行/慶應大学文連常任委員会 1974.4.6)
異様なもの、妖しげな気配、おそらく耐え難い戦慄、その奇怪な動向が、亀裂を帯び破砕寸前の現在を足場にして翔び上がろうとしている。爛熟という死、腐敗という多くの微細にわたる罅を拡げながら、卵の殻には、不吉な鳥、異様な生の足跡が刻まれる。卵自体においてはその内部に死と腐蝕とを抱え込むことによって可能なのであり、その外側に与えられるのは、異様なものの現出へ向ける予告なのである。現在はあらゆる過去の吹き溜まりでしかなく、ついには現在を超え得る何ものもない。現在はただ己れを到達点という、それだけで過去でしかないものに委ねることにより、連続的に終了しきっているのだ。終了の絶えまない持続、否、それは考え違いでさえある。終了の亡霊であるというべきか。またぐつぐつと汚濁に充つる腐敗であるとでも述べるべきか。だが、一切はこの死の現在自体の暗示するところのもののうちに孕まれてはいる。現在という殻には、不吉な鳥の足跡が印される。
爛熟し、罅割れ状態の現在とは何にもましてこの異様なものへの予兆である。過去を包み込んだ現在の殻とは、過去の累積する死の排泄物でできあがったもののようである。それは、壁であるとか限界であるとかというよりも、ある関係の固定観念である。殻と卵の内容物との関係からいえば、殻の内部、楕円の球空間に己れの全体を決定されることのうちでだけ、内容物は殻に対してある関係を取り結ぶのであり、そこでは、殻を破って鳥になるということは死と同義の禁忌である。だから、のっぴきならぬ関係をもつ卵と殻に訪れるのは、タブーを犯すことによる破滅か、己れの死と腐敗を通じてもろともに解体し尽すかの、いずれかである。だが、そのいずれにおいても現在が、伝統的なるものという過去の殻で構成されている以上、内容物と殻に与えられた死の翳こそが暗示する、外側の、ある異様な、そら恐ろしいものが、最初にその表面に爪跡を残すのである。