[資料] 戒厳令下の北京を訪ねて【上海篇】[06](直江屋緑字斎)

戒厳令下の北京を訪ねて【上海篇】[06]

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 この匂い、この町並み、この貧しさ、これは私たちの子供の頃の世界なのだ。
 人民路、中華路という楕円のようにつながる道の内部を徘徊しているうちに私は迷いだしていた。何度も同じ並木道に出たり、さっき見かけたはずの閉じかけた小吃(Xiaochi、一膳飯屋)が薄暗い灯りを入り口から漏らしていたり、路地で私と会うたびに訝しげな顔で飽きもせず見つめ続ける老人たち。
 気がつくと、広い通りでも街灯などあまり見かけず、車も規制されているように思われるほど通らない。しかし、人々はその暗がりの中をしきりに歩き回っている。
 私もまた、わけもなく歩き続け、考えていた。

 私はこの国の人々が未曾有の抑圧を受け、侵略の嵐を浴びたということを忘却して、ただただブルジョア的な感懐に耽っていたのだろうか。
 いや、そんなことはないつもりでいる。私は日本という国家が、そしてその権力者が、軍隊が、国策会社がこの国で何をしたかということに無自覚なわけではない。
 今だって、同じように企業が開放政策の波に乗って押し寄せてきている。
 しかし、だからといって、この国の特殊な支配構造がこの国の人々を抑圧し、弾圧することを見過ごすことはできないのだ。おそらく、私は国家とか、支配とか、抑圧とかいうものが許せないのだ。ある種のアナーキスティックな感受性を抱いているからなのかもしれない。
 日本という国が今も経済という妄想によって狂っているように、大東亜共栄圏などという妄想に狂わされていた時代、この国の人々を帝国主義軍隊で踏みにじったことは紛れもない事実である。
 1937年7月7日の蘆溝橋事件に始まるこの悲劇的な大侵略戦争は、上海では8月9日に起きた大山事件を契機に、8月14日、日本海軍第三艦隊と蒋介石の中国軍との間に激しい市街戦を引き起こし、頑強な中国軍の包囲に対し、陸軍は上海派遣軍を編成し派兵、さらに9月2日、近衛内閣はそれまでの限定的な呼称である「北支事変」の呼称を自ら「支那事変」と変更し、宣戦布告もなしに日中全面戦争を開始するという暴虐を冒すことによって開始された。
 4カ月にわたる上海戦線での戦闘では日本軍の戦死者9000人、戦傷者3万人、中国軍の遺棄死体は15万人を数え、さらに押さえようのなくなった狂気の軍隊は、12月13日から10日間で12万人?30万人を殺害したといわれる南京大虐殺を引き起こした。